2018年11月29日木曜日

対照的な里山


 天気が崩れるかもと言われた昨日(11/28)、秩父盆地の入口にある埼玉県寄居町の里山を歩いた。来週行く予定だった、この山のチーフリーダーが「鎖骨骨折で行けなくなった。あとをよろしく」とメールがあった。えっ、俺も行ったことがないよと応答したが、まあいいか、今週の山に組み込んで歩いてこようと出かけたわけ。


 奥秩父に降った雨を集めて源流から流れ下ってきた荒川が、一筋、秩父山塊の弱いところをついて削りとり、関東平野に流れ込んでいる出口がこの寄居にある。暴れ川を制御するために、まずこの出口にダムをつくった。細長い玉淀湖が満々と水を湛えている。その両岸に、秩父へつながる山が起ちあがり、川の右岸は奥武蔵と名づけられた山々をなしている。昨日登ったのは左岸の山。山並み自体がここを終点にして、平野へと姿を変える。文字通りの里山である。

 その山並みに沿うように古い国道254号線が走る。ニコヨンと呼ばれてきた。江戸のころは、信濃に抜ける旧中山道の裏街道として使われ、ヒメ街道と呼ばれた。どうして姫か? 「入り鉄砲に出女」というあの街道筋だからヒメなのだ。さらに遡れば、北条氏の支配下にあったこの地には、鉢形城が置かれ、支城として出城が築かれて、豊臣秀吉の軍勢が真田昌幸に率いられて北条氏と戦った合戦とでは鐘を鳴らして、敵の侵入を知らせたといわれる。山の名も鍾撞堂山330m。

  登山口の駅に着いたのは8時11分。すぐ近くの高校に登校する生徒たちと一緒に下りた。だが大雑把に聞いていたルートでは、どこを歩くかわからない。地理院地図をみると、登山道は四通八達している。どちらから登りどちらに抜けるか。ルートが自在にとられている。鎖骨骨折のリーダーは「駅に地図があります」と言っていたから、駅舎の片隅のチラシを置いてあるラックを見るが、それらしきものがない。駅員は、車いすの乗客を送り出すためにプラットホームの向こうの端に行ってしまった。待つこと5分ほど、「ああ、ありますよ」と引出しから地図を出す。ところが、この桜沢駅から登り、寄居駅に下るルートを紹介している。それだと、たぶん2時間ほどの山歩になる。波久礼駅に下るというと、えっ、と驚いている。地図にはない。

 国土地理院のこの周辺の地図はコピーしてきている。ま、何とかなるだろうと歩きはじめる。国道が何本も交錯して横断歩道がない。歩道橋を渡る。八幡大神社への階段を上っていると、脇の道を一人の高齢者が上っている。
「鍾撞堂山にいくんですか?」
「はい。そちらの道ですか」
「そう、神社へ登ると行き止まりですよ」
 と教えられて、脇道へ入る。この方、二日に一辺、この山へ登っているそうだ。
 ごめんと言って、私が先行する。入口の標高が110mだから、220mの標高差を登るだけのハイキングだ。「八幡山コース」と木に標識が縛りつけてある。赤城山や筑波山まで見える眺望がいい山とチラシ地図には紹介してあったが、私はむしろ、寄居の町が見下ろせるのに驚いていた。こんなに大きな町であったかと思うほど、住宅と工場と高速を含めた広い道路を平坦な関東平野へと広げていく様子がうかがえる。

 結構急な上りがあり、しかし、ほんの10分も歩くと稜線上に出て、おおよそ標高200m~300mを快適に歩く。登山口からわずか20分で八幡山の山頂に着いた。樹々が視界を遮る。ベンチが設えられている。紅葉は進んでいるが、間近で見ると赤茶けてきれいじゃない。木々の間を抜ける木漏れ日が美しい。そう言えば気温もほどよく、汗もかかない。要所に案内標識が立っている。道が分かれているかと思えば、巻道だったりする。

 「ホンダ・寄居町 協働の森」という表示板が建っている。両者と埼玉県がオイスカという公益財団法人をつくり、11年間森づくりをし、それが完成したと記している。今年の6月のようだ。「水の町寄居」というのも、初耳だ。後ろからやってきた二日に一辺登っているという方が荒川の対岸の風布に山からの湧水があって、評判だと話す。1時間ほど歩いたところで「←鐘撞堂山200m」と標識が立ち、登りが急になる。木立が切れ、町が見える。周りの山肌の紅葉が、全体としてみるときれいだ。

 鐘撞堂山330m、9時37分。出発してから1時間17分。良い散歩コースだ。山頂の広場にはさらに3メートルくらい高い展望台がつくられている。鐘が撞いてくれと言わんばかりに置かれていて、堂守が飛脚も兼ねていて、戦時編成の守備隊として敵の動きを早鐘によって知らせたとある。山名の由緒由来を語っているのか、この地の来歴を記しているのかわからないが、文字通り里山だ。円良田湖への道も何本かあるようだが、「円良田あんずの道→」と、ルートガイドがある。これなら地図は要らない。

 下る。道はしっかりしている。道の右側にロープが張られ、「カタクリの群落 立入禁止 深谷市」と表示がある。そうか、ここは寄居町と深谷市の境目か。古くさび付いた標識が「円良田特産センター28分→」と方向を示す。標高170mほどまで下ったら、舗装路に出た。上からみるとその先に、二車線の車道が走っている。美里町と寄居町とを結ぶ県道だ。ちょうどこの辺りが町の境界らしい。県道に降りて、円良田特産センターへ寄る。プレハブの民家が「えごま油」の幟をたててひっそりと商っている。中では一人のご近所の客と中年の店番がいる。「深谷市」との端境なんだとカタクリの標識を持ち出して聞くと、店番の男が
 「ここはね、入り組んでんだよ。花園町が深谷に編入され、児玉町が本庄市になり、美里町と寄居町はそのまんま残ったからね」
 と、平成の大合併がもたらした行政区画の変わり方を話す。

 道路を渡って、虎ヶ丘城址へ向かう。左前方の山肌がきれいに色づいている。脇へ逸れる舗装路を少し歩いて、そこを踏み外して登る。急に足元が草に覆われ、枝葉が行く手を遮る。木立が迫り、暗くなる。稜線上の峠に出る。「←波久礼駅2400m・160m虎ヶ丘城址→」と標識がある。城址の方へ向かう。百数十段の木製の階段が設えられ、急な上りになる。上ると山頂だ。標高337m。東屋がある。10時40分。早いがお昼にする。北東方面が少し開けているが、山肌の色づきが見えるだけ。眺望は良くない。

 11時ちょうど、「波久礼駅(70分)→」の標識脇を抜けて、やって来た道を峠へと降る。峠を過ぎて南へ向かう。ルートはこの山の幟同様、あまり整えられていない。緩やかに下るから危なくはないが、片側が切れ落ちたトラバース道に、山側から野草が覆いかぶさり、崩れかけている。あまり人が歩かないのかもしれない。陽ざしを受けて照り輝く照葉樹の葉が、きらきらと美しい。

 40分足らずで「←円良田湖・かんぽの宿→」の分岐に出る。右へ行くとすぐに舗装路に出た。かんぽの宿は少し戻る。骨折リーダーは「風呂もビールもあります」と案内文書に書いてあったが、そのまま駅の方へ向かう。10分ほどで駅に着く。11時50分。時刻表を見ると9分後に電車が来る。秩父線から東上線へ寄居駅で乗り換え14時過ぎには帰宅していた。

 鐘撞堂山へのしっかりした道と虎ヶ丘城址への荒れたルートの違いは、虎ヶ丘城址(別名・城山)が美里町に属することによるのではないか。ホンダ工場がやってきて、わりと予算の豊富な寄居町と里山だけでひっそりとやってきた美里町とでは、かけられるお金が違うのかもしれない。これほど対照的に里山を歩きみたもは、久しぶりのような気がする。

0 件のコメント:

コメントを投稿