2018年11月7日水曜日
女性の社会的経験の生み出す裏技操作気質
このところちょっと慌ただしい。団地の修繕積立金の値上げに関する「説明会資料」を文章化していることもあるが、それだけではない。山のことやseminarのこと、他の調べたいことがあって、ブログを書く気分になれない。でも、日々を過ごしていると気になることが出来する。それについて、いつか書こうと思っていると、ついつい忘れてしまう。まず、そのひとつ。女性の社会的経験の生み出す裏技操作気質。
団地住民の高齢化が進み、13ある階段から毎年一人の理事(役員)を出している。これまでは階段(おおむね10戸、何カ所か9戸)住民が一年交代制で順番を決めて理事(役員)を務めてきた。ところが高齢化が進み、10年か9年に一回のはずが8年に一回、7年に一回になったところもある。最高齢90歳となると、順番からはずすほかない。また当人からすると、80歳を超えて務まるか不安にもなる。そこで「交代制」を考え直そうというモンダイに、いま取り組んでいる。
今最高齢の、77歳の理事が「二年任期、毎年半数ずつが交代する案」を提出した。そして「まず隗より始めよって言いますから」と、今年の理事の半数が残って、欠けた階段から来年の理事を出してもらって「移行する」のはどうかと提案した。今年一年で辞めるのは、正副理事長とか正副総務理事とか、正副広報理事とかいった正副を決めている理事の「正」の方。つまり「副」理事が来年もう一年務めて、正理事になれば、理事会の引継ぎもスムーズにいくと考えたわけだ。
ところが、「それは無理、ムリですよ」と「副」の方から声が上がった。女の方だ。副自治会長も「副が正になるってことでなくてもいいのではないか」と部分的に異議を唱えた。正副で務めるわけにいかない「会計」やその他の理事は、翌年の適材をあらかじめ枠にはめてしまわないほうがいいのではないかと疑問を呈している。後者の疑問はすぐに理解できる。だが、「ムリ、ムリですよ」というのは、役職のもっている仕事の内容や責任の重さということもあろうが、じつは、当の女性自身が矢面に立って役割を背負いこむ気構えを持っていないことによると思われた。
誰もがそうだというわけではない。これを提案した最高齢の理事は女性の監査理事。自治会とダブって仕事をこなす仕組みにしているから、自治会長である。むろん今年一年、仕切っている。歳をとればそういう覚悟ができるのかどうかわからないが、ご当人の気質に拠るような気がする。その気質を決定づけるのが、ここに至るまでの暮らしにおけるご亭主への依存具合だ。提案者の女性もそうだが、早くにご亭主を亡くした女性は、他の畑でも見かけるのだが、間違いなく自律している。判断もテキパキしている。起案もできる。説明を引き受けて、やり取りをする。
それに反して矢面に立てない女性は、ご亭主の陰にいてご亭主を支え、ご亭主を操作して何かをすることは得意であり、献身的であるが、ご自分が前面に出て取り仕切ることをしたことがないかのように、身を隠す。私が見ていると、間違いなく力はある。企業の人事課員としてさまざまなプランを立案し実行してきた実績もある。にもかかわらず、不安なのだろうか。「副」としてはいろいろなことを提案し、「正」がそれでいいと承知すると、あとは自力で全部やりこなすほどの力量を発揮する。にもかかわらず、「正はムリ」とのたまう。男女を問わず、誰しもが何か新しいことをやろうとするときには、不安をもつ。でも仕方がない、できるところまでやろうと、私などは肚を決めて乗り出す。OJTというわけだ。これは男の気質なのだろうか。この辺りについての、男女の社会的経験の差異がもたらす気質の違いは、なかなか埋めることができない。
場を変えても、こんなことによくぶつかる。山歩きでも、そう。案内してくれる分にはよく歩くのに、先達として案内することになると、とてもできないと身を引く。鳳凰三山に行きたいというから、ご自分で立案して募集してください、私も同行しますからと応じるが、「いやそれはできません」という。あくまでも山歩きの消費者としてご自分を位置づけているのだろうか。なかには、歩行力量も、経験も、コースの立案も十分達者な方だと思うのに、チーフ・リーダーを交代で務めるのは負担だと言って山の会を辞める方もいる。私には、何ができないのかわからない。せいぜい完璧主義者なのかなと思うばかり。もし自分がチーフ・リーダーのときに道を間違えたら、事故でもあったらと考えているのかもしれないが、そうだとしたら、誰かにくっ付いて歩いていてもそういうことは起こりうる。そのとき、ご自分は「し~らない」とおもうのだろうか。
その女性たちにおおむね共通するのは、とても面倒見のいい、気遣いの利く方だということ。ご亭主に依存するというより、ご亭主を掌に載せて依存させ、のんびりと育てているような気配さえある。つまり傍目には、しっかり者の女房なのだ。これが日本の長い家族制度がつくりだした女性像であり、それに乗っかっているから、男女平等参画社会などといくら口を酸っぱくしていっても、一向に平等参画なんて実現しないのだと、思わぬ方向へ話が飛びそうになる。いつかきちんと考えてみたいモンダイだ。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿