2018年11月27日火曜日

いい加減な奴


 団地管理組合理事長の仕事をしていて、「自然という傾き」などと昨日、ためらいもなく自己批評をしたが、それにはもうひとつ、不可欠の軸がある。ちゃらんぽらんという気性だ。


 管理組合は、毎月、理事会を開く。その都度、総務理事が「議事録」を記し、それを次の理事会に提出して、訂正するべきところは訂正して、「議事録正本」に署名捺印して保管している。今年の理事長候補になったとき、前年の理事会に傍聴を求められ4回の理事会を傍聴した。前年の理事会は、そのやり方を次年度理事長らに見せて、事務引継ぎなどをスムーズにしようと考えているのだと思った。その場で、上記の「議事録」の扱い方を見せてくれた。だが私は、まったく別のことを学習していた。

 というのも、その理事会の場では、前回の「議事録」の文言をめぐって、ふたたびやりとりが再燃し、同じような意見が取り交わされ、それで半分以上の時間が費やされていた。つまり、何を決めたのか決めなかったのか、議事を一つひとつ押さえて会議が進められていない。そもそも「議題」の提起が、話題の提出と相談になってしまって、何を決め誰が取りまとめるのかさえ、曖昧模糊としていたのであった。

 だから私は、「理事候補の準備理事会」をスタート前に開いて、理事会の持ち方、決め方などを提案した。「原案」を提出する。意見を交わすが、原案を修正するか承認するか否決するか、やり取りの結果を明確にする。前回の「議事録(案)」は次の理事会の少なくとも一週間前に全理事に配布し、全理事はそれに対する修正や補足や意見を、これも二日前までに理事長に提出する、とした。そうして「前回理事録」の扱いを「議題0」として、基本的に時間をとらないようにしたのだった。

 こうした会議のやり方は、たくさんの人と共同で仕事をしている勤め人たちにはおおむね歓迎された。ただ職人仕事や個人事業主や自由業とかサービス業の方や主婦たちには、馴染めなさがあったかもしれない。「原案」を提起できない。「どうしたらいいか皆さんで相談してください」と提出する。何をいつどうやろうと考えているのか、それだけでも原案として出してくださいというと、なんとか格好はつく。つまり、「企画」をたて、それを遂行するための段取りを決めて、皆さんにみてもらうというかたちをつくるのを、まとめ役の理事長が主にメールでやりとりしながら、指南しているような状況もあった。

 でも植栽のことなど全く知らない環境理事のためには、「小委員会」を起ち上げ、ボランティアで植栽に詳しい人たちにボランティアをお願いして、補佐機関と位置づけた。それもあって、半年たった冬の剪定には、具体的な伐採計画を組み込み、業者と小委員会を交えて相談をして、いくらか修正を施しながら、実施計画が提出された。ほかの理事たちも(いうまでもなく私も)植栽のことなどわからない方が大半であるから、そうした補佐機関の設置は環境理事だけでなく、理事会全体としても必要なことであったと、振り返って思う。

 そうして今の時点で振り返ってみると、私が仕切っていたのは何某かのことを取り仕切る「はこび」だけだ。その内実がどうかは、私はほとんどこだわらない。こだわらないというと聞こえがいいが、その実、ちゃらんぽらんなのだ。それが良かったと思う。だから、総務理事が提出する「議事録」も、ほぼそのまんま、全理事に流す。すると理事の何人かから、文言の修正や記録に止める必要のない部分の指摘、順番の番号の振り方などまで細かくチェックして、触れてくれる方がいる。そういう目が必要と思うから、その「指摘」もまた、そのまんまに「議事資料」に掲載する。論議はほとんど交わさないで、受け容れるところはどことどこと総務理事も応じて、時間を食わない。時間を食わないことが重要というよりも、その原案と指摘のやりとりが理事相互の関係にとって重要と私が考えていることが、自分に分かるようになった。だから「自然(じねん)」とほざいているわけである。そのおおもとには、ものごとにこだわらないちゃらんぽらんな気性が役立っている。もちろん、綿密にこだわって、まるで新聞雑誌社の「整理・校正係」のように用語や文章の句読点にまでコメントを加える方がいてこそ、全体としてうまく運んでいるといえるわけだと、今のところ自賛している。

 この気性は、時代的な土壌によって育てられたものが半分、私自身の親や兄弟との関係の中で、私が占めるべきポジションとして育ててきたものが四分の一、残りの四分の一が、私の身を置いた職場や友人関係の固有の規範が作用して育んだものと言えようか。そんなことを見立てて、今もまだ、私の気性を育てようとしていると、理事長職を眺めている。

0 件のコメント:

コメントを投稿