2018年11月4日日曜日
事象をみる、原因はどうでもいい、か。
今野敏『豹変』(角川書店、2015年)を読む。ストーリーはさておいて、この物語の山場で登場する人物・お祓い師のセリフが面白いと思った。人に憑依する「狐憑き」をどうみるのかというところ。
「それで、人間の精神活動というのは、単なる個人の脳の働きの結果ではないと、あなたは考えているわけだね?」
「そういうことは考えません。俺は、目の前で起きている憑依現象について対処するだけです」
「原因も知らずに?」
「理屈など知らなくても戦うことはできます」
狐がついているのかどうかも、どちらでもいい。憑いている何かではなく、憑かれている人の振る舞いが問題、その人と関わるのがお祓いだ、と。ミステリー作家が「原因など知らなくても」というのは、作劇の常識に反するし、犯罪の捜査をしている(主人公)警察官が因果関係を知らなくてもいいというセリフを味方につけて次への展開を図るのも、設定としては面白い。
もう一つ、吉田修一『怒り(上)(下)』(中央公論新社、2014年)は面白かった。こちらは、自らの過去を消して生きている人たちと向き合っている人びとの心の揺れ動きが活写されている。そのなかに一人、殺人事件の手配犯人がいる。向き合う人の中に、その犯人を追う警察官がいる。その追う方の警察官もまた日常において、別の過去を消したい人と向き合っている。そのとき、今野敏のお祓い師のように「目の前に起きている**現象について対処するだけです」と言い切りたいのに言えない心裡の揺れが、そのほかに起きる事象を媒介にして、「人生」を浮き彫りにする。
目前の現象に対処するだけと言い切れるのは、「お祓い師」という立場。「かかわり方の第三者」だからだと、両書を対照させてみるとみえてくる。私たちは日ごろ、第一人者か、第二人者の「関係」を生きている。第三人者というのは、「関わり」には違いないが当事者ではないから、「かかわり方」の選択を厳しく問われる立場に身を置いていない。事象がどうなってもいいし、信じようと信じまいと、どちらでも構わないのだ。ところが「かかわる」というのは、そうはいかない。そう行かないとき、なぜその事象がそうなっているのかと疑念を懐く。あるいはそれが落ち着きどころを見出さないと、「かかわり」を安定的に保てていけないと不安が生じる。
その不安の解消がじつは、自らの固定観念をかたちづくるだけにおわるとき、「関係」もまた終わるというシビアな展開を吉田は切り裂いて見せている。実存というのは、心裡の不安定性を保ちながら揺れ動いていることなのかもしれない。作品としては較べようもないけれども、ミステリーとしては、吉田の作品の方が、はるかにハラハラと読む者の心に響く。
別の角度からみると、「理屈など知らなくても戦うことはできます」と言えるのは、標的が明確に存在することに、立ち向かう人の実存が支えられていることを示している。つまり標的もしくは敵によって、自らの実存の確実性が保障されている。標的は、敵でもある。トランプさんが演説でいつも敵を作り出し、過激に敵を攻撃して(翻ってじつは根拠なく)わが身を護っているのは、この実存の確実性を証している。トランプさんの演説を耳にして心地よいと感じている支持者も、そのトランプさんをバカにして心安んじている人も、同じ土俵の上で、自らの実存の確実性を獲得しているにすぎない。
とすると、実存の確実性を手に入れるために標的もしくは敵を必要とする心性、あるいは不確定に揺れ動く心性に、人間の本質があるのかもしれない。アメリカの中間選挙がどうなるかは、私にとっては第三者的問題なのに、日本の首相がアメリカの為政者にべったりしているから、少しばかりハラハラする事象になっている。とっても「戦える」気分にはならないが、はたしてこれは、私の実存にとって「かかわっている」ことにならないのではないか。でもそれに、何か問題でも? ということなのだろうか。
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