2018年11月24日土曜日

直葬


 ご近所の高齢者ばかりの集まり。飲んでいるときの話題、ひとつ。

「わたしね、ジキソウすることにしたよ」
「なに、ジキソウって」
「死んだらね、葬儀社に頼まず、病院から焼き場に直行するのよ」
「そりゃあ、ご本人はいいでしょうが、奥さんはどうすんのよ」
「いや、家内もそれでいいって言ってるんだよ」


 このご夫婦、私より一つ年上の後期高齢者。海外を飛び回って仕事をしてきたが、子どもはいない。親もすでに亡く、兄弟とは縁もなくなっているのか、話しに現れない。

「ご近所があるだろうよ」
「ご近所なんて、私がなくなっても、ふ~ん、そう、ってもんだよ」

 と素っ気ない。町内会の「班」はある。だが、新興住宅街として開発されたこの地に居を構えたとき、彼ら夫婦は手拭いをもってご近所にあいさつ回りをしたが、のちにここに越してきた方はだれ一人として挨拶に来ない。カラスや猫がごちゃごちゃにしてしまうごみの出し入れについて話し合おうとしても、どなたも世間話程度にしか応じない。拒むほどではない。誰か世話役でもいれば動かないでもないという風情。彼自身も音頭をとるのは面倒だから、最低限のことはするが、後は知らぬ顔をしているという。

 彼ら夫婦は、すでに墓地を決めている。喜寿を迎え、終活はすっかり終わっているようだ。その一環としてのジキソウ。う~ん、となると、墓だっていらないんじゃないか。そう思ってしまう。

 もっとも彼に言わせれば、夫婦が二人が一緒に亡くなるわけにはいかないから、相方が亡くなるまでの墓所は必要だという。それもそうだ。依り代としての「なにがしか」は要ると言えば要るが、ならば部屋におく祭壇だけでもいいように、私は思う。

 身近な人の死を私はどう受け止めているのだろうか。死後も魂は生きているということを信じてはいないが、私の胸中に生きているとは、思っている。つまり生者の中に生きるだけだ。その生者の胸中に甦る依り代は、生きている者にとって必要だと、親やなくなった兄弟のことを思う。亡くなった者が、自分の死後のことを気に病む必要は、まったくない。残されたものが考えればいいことだ。

 どこから来てどこへい行くのかわからないが、無から来て無に還るというのが、腑に落ちる。無に還るからと言って、生きている間の人生が無というわけではないし、無であっても構わない。それ自体の意味なんて、あってなきがごときものではないか。それをニヒリズムとかシニシズムとか、文句をつけることはない。誰かが思い出してくれなくたって、だからなによ。それでいいじゃないって、私は思う。訣かれの形としてのソウシキはあってもかまわないけど、さ。

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