2018年11月2日金曜日

〈何か〉のために生きる自画像


 《優子ちゃんと暮らし始めて、明日はちゃんと二つになったよ。自分のと、自分のよりずっと大事な明日が、毎日やってくる。すごいよな。   瀬尾まいこ》

  と「折々のことば」が拾われ、これは小説『そして、バトンは渡された』の一節と断って、鷲田清一は、こうつづける。

 《縁あって高校生・優子の義父となった男の言葉。優子は幼くして母を亡くし、血縁でない大人たちにリレーされて育った。その”親”たちが大切なもう一つの「明日」のためそれぞれに心を砕く。あらためて考えれば、自分のために生きるというのは、自分を満たすものが何か見えず、存外難しいもの。》

 これは、昨日アップした「アスリートと心の病」の、もう一つ深みを指し示しているのではないか。


「「おまえの限界はそこまでか」「もう動けないのか」とぎりぎりのところに自分を叱咤激励して、さらに追い込んでいく」小磯典子さんは、まさに「自分のために生き」ている。それは(たぶん)コーチの指示をきちんと守り、「自分との戦い」と心を定めて、行っていることに違いない。コーチのために戦うというのは、どこか違う。それではたとえ競技においてトップに立ったとしても、自らの勝ち取ったこととは思えない「不全感」が残る。それが引退後の「心の病」に結びついているように思える。それは、鷲田清一のいうように「自分を満たすものが何か見え」ないからだ。まさに「欲望」が原動力となるときの臨界点を示している。その先が読めない不安に打ち負かされてしまいそうになる。「存外難しい」というよりも、自家撞着の回路にはまってしまう。

 ひとは〈何か〉のために生きているという媒介物というか、介在させる人やコトがあって初めて、自ら立ち向かっていることに対して平常心を保ちながら敢然と立ち向かえるのではないかと、私は思う。「誰かのために」「なにかのために」という立場は、ある意味では、自らを少し高みにおいてみてとるような視線を必要とする。「使命感」と言ったりもするが、その自らを違った、超越的な視点からみる視線こそが、超越的な絶対者をもたない汎神論的な自然観をもった私たちには、欠落していることのように思える。

 つまり私たちは、意図的に「何かのために」「誰かのために」という関係的位置づけに身を置く作業を通して、やっと、自らの輪郭を自画像的に描き出すことの端緒を手に入れることができるのだ。あおれが「せかい」を描き出し、自らの「限界」をみてとりながら自らを越えていく跳躍へ挑戦して行けるのではなかろうか。

 アスリート・小磯典子が「それは違う」と先輩に逆らったときに感じた「せかい」の輝きとは、もし信仰の世界で言えば、ある種の「召命」のような、神による啓示を受けた瞬間のように思う。八百万の神々を身体で感じて生きてきた私たちにとっては、異なった文脈で「せかい」を見て取る作法を見つけ出さなければならない。そんなことを「折々のことば」が示したように思った。

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