2018年11月18日日曜日
丸くなるのは、どうでもいいということか
相変わらず、私の俗世間とのおつきあいはつづいている。今日も、団地理事会に付属する建築関係の専門医委員会の月例会。この専門委員会の「値上げ素案」を受けて理事会の「値上げ案」を決めた。「受けて」などというのは、格好をつけている。内実は、そっくりそのまま受け入れて、「素案」を「成案」として「説明会に臨む。そういう「説明会資料」を作成中だ。理事たちに回した「成案」の第一稿を、この専門委員たちにも見せて、用語のチェックなどを期待した。これは、「説明会」の席上で、専門委員たちが理事会側に着くことを期待した「ガス抜き」でもある。
いうまでもなく私は、修繕とか建築関係には、「素人」を標榜している。この私のスタンスは、やはり輪番制で理事になっている人たちには評判が悪くない(と私は思っている)。彼らが「わからない」ことは当然、私が代わりに質問をする。あれこれ(専門家たちに)問い質すことを、理解を深めるためとして、許容してもらう。そういうスタンスを貫いてきたから、近ごろでは専門家たちも、私の「わからない」を受け止めて、解説しようとする。と同時に、専門家としての立場から、私たち素人理事会のやり方を、そこはいけないと指摘し、直そうとする。だが、専門家たちのいうことは、その専門家たちの世界のやり方であって、素人のやり方とすれ違う。当然専門家たちは、専門家の方が偉いと思っているから、「それはいけませんよ」というばかりで、どうしてかを説明できないことも出来する。
今日も一つあった。先月、その専門委員会は、給水管・給湯管更新工事の「施工方式」について、二つあるうちの一つに「決定」した。「責任施工方式」か「設計監理方式」かだ。建築理事は、その「決定」を今月の理事会に報告し、理事会はそれを了承した。そのことを私が、「説明会資料」に書き込んで置いたところ、「これはどういうこと?」と質問があった。「その通りです」と応じると、「報告って、具申か何か文書があるの?」という。「ええ、簡略な図式にしたものが添えられて、”施工方式”として報告されましたよ」と応えると、それは聞き流したようなものでしょうという。「えっ? どういうこと?」と私は言うが、当の専門家は、「この団地には一級建築士もいるし、建築関係の業務に長年携わってきた詳しい連中がいっぱいいるのよ。彼らは、ちょっとした隙をついて文句をつけてくるから、それに応じるだけの文書や確かな根拠を残しておかなければならないのよ」と忠告してくれる。わが建築理事は、「わかりました」と引き下がったから、私もそれ以上聞きただすことはしなかったが、何でこの団地が、建築業界の作法を踏襲しなければならないのだよと、後で、腹が立った。
輪番制の理事会であることは、どなたもが承知のはずだ。もちろん、だからと言って、いい加減にコトをすすめていいいとは言わないが、私の考える常識の範囲で誠実に、展開しているものを、「作法書式」が整っていないとして、司法書士世界やお役所世界や建築業界の「常識」を押し付けないでほしい。それ相応の作法や書式が必携ならば、28年もやってきている管理組合なのだから、それを定着させておいてもらいたいものだ。
言いたいことはあろうが、自分のうっぷん晴らしのために文句をつけるのは、江戸の仇を大坂で討とうってもんだ。よしてくれ、と私の現場主義はうっぷんを募らせている。
それでも、家に帰ってつらつら考えてみるに、私は丸くなった。正面切って、相手を批判しない。うんうんそうねと聞いて、でもわかんないね、それ。と受け容れない言葉だけを口にして、終わりにしている。俗世間のごたごたに首を突っ込む心もちが、端からないかのようだ。どうでもいいてこと? と私の内心のどこかがつぶやいている。そうだねえ。どうでもいいんだよね。修繕積立金の値上げが必要で「提案」しているのだが、どうしてそれが必要かと問われれば、専門家の「ご意見」を動員し、挙句に国土交通省の「ガイドライン」な何かを動員して「世間並み」を解説するなんて、面白くもなんともないことだよね。
世の中がどうでもいいやって思っているのに、槍突き立てて尖がってどうすんのよ。
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