2018年11月28日水曜日
人為的なものは冷血で良い
太田光『違和感』(扶桑社、2018年)を読んでいて、「モラルと道徳とルール」という節が気にかかった。要は、「ルールは厳しくていい。法律は冷血で良い」と言う。それを見て、そうか、と腑に落ちるところがあった。
モラルや道徳というのは、蝟集する人々が醸し出す「雰囲気」みたいなものだ。どんな人が、どこに集まって、どういう関係を紡いでいるからどう振る舞っている、というところの「気配」だから、これは、「自然(しぜん)」に醸し出されているというか、場の「自然(じねん)」が醸し出していることだ。意図的に操作してつくれるものでもない。人という自然存在が作り出すものではあるが、なるようになる、なるようにしかならないことだ。当然、集まっている人たちが身に備えている「文化性」によって、紡ぎだされる「雰囲気」は違ってくる。
ところが、ルールとか法律というのは、振る舞いの大枠をなす事柄だ。大枠といたって、大雑把ということではない。頑としてそれの外へ出ることを許さないという境界線、ボーダーだ。それを踏み越えたら、銃撃されるよっていう仕切り線だ。歴然たる暴力に裏づけられた「権力」が介在している。考えてみれば、これほど人為的につくられた端境はない。
だがもともと、人為的なことって「しぜん」からすると破壊的であった。アジア的な汎神論的な、すべての存在物に同等な魂が宿っていると考える自然観の持ち主の目から見ると、そう、言える。西欧の人たちは、その疚しさを神に預けた。そうして、神から人間は全ての神の被造物を支配することを赦されたという物語を枕に振っておいて、ありとあらゆる人為的な活動を情け容赦なく開始した。ことにそれは、それは神の被造物のなかでも、神を信じていない人間に対して容赦なく、破壊的な振る舞いをしてきた。世界の歴史を繙いてみれば、それは明々白々である。
私たち人類は、そのような法律を作ることによって、逆に、自由を獲得してきたとも言える。自由というのは、不安からの解放でもあった。不確実性を生き抜く智恵でもあった。「くに」とか国家という共同体は保護的と同時に抑圧的であった。それは、それを受け容れる人がどこに位置してその共同体を観ているかによって、異なってくる。つまり生活者の心的安定を売るために「くに」の暴力的権力を支持し、社会契約という物語をつくりあげることによって、さらに、強く自己規制をすることを通じて、共同体外の人びとに対する冷血を築いてきた。もちろん内部の人間が越境するのにも、当然のように冷血は襲う。ルールとは支配である。
とすると、「法」というのは、デジタル時代の考え方に似合っている。YES/NOが明白だ。迷うというのは、流れにのれない。あいまいで、どちらともつかないグレーゾーンは、時代の風潮に合わない。いまそのようにして、ものごとの白黒がつけられつづけ、人間はそれに合わせるように自己改造をすでに始めている。つまりモラルも道徳も、ことごとく冷血になりつつあるのだ。著者・太田光は、それに気づいているだろうか。
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