2018年12月10日月曜日

酪農というノスタルジーの真実(3)消費というちゃらんぽらんの自然


 いつ頃から自分の食べるものや使うものに神経を使わなくなったろうか。牛乳という、子どものころから暮らしの中にあったものなのに、いつも冷蔵庫にあるものと思っていて、それ以上どこがどうと気遣いをしていない。

 SRさんは「牛乳の表示」というA3判のプリントを用意して、牛乳製品の表示をもっとちゃんと見ろよと話す。牛乳の種別が七種類ある。言われてみれば「ことば」としては耳にしたことがあることばかりだ。「牛乳、特別牛乳、成分調整牛乳、低脂肪牛乳、無脂肪牛乳、加工乳、乳飲料」の七種。でもその中身がどうかは、考えてみようと思ったこともない。最後の二つ以外は生乳100%という。


 えっ? とすると、軟水と硬水の違いがどう影響するのだろう。生乳を100%使っているのだとすると、牛乳を飲むことは、日本と欧米とで違いが生じるわけではなかろう。牛自体が呑む水が違うから生乳に違いが生じているのだろうか。それとも硬水のヨーロッパは、牛乳よりもワインの方があっていて、湯水のように飲む習慣ができた、とでも言うのだろうか。ま、いいか、その辺は。

 成分や衛生基準もそれぞれに「定め」がある。乳脂肪分が「何%以上」とか「以下」とか、「無脂乳固形分の%」。あるいは「細菌数1ml当たり」が何万以下と「大腸菌群」が「陰性」と。

 殺菌法が四種あるという。「低温保持殺菌法、高温短時間殺菌法、超高温瞬間殺菌法に二種」とあり、SRさんの説明では、結核菌殺菌のためという。今の日本ではUHTと名づけられた(130℃で2秒間の)超高温殺菌法が90%を占めているという。面白かったのは、鳥取の大山産業が、65℃で30分間という低温殺菌法を採用していたという。それを鳥取の学校給食に使っていたそうだが、ある年の入札でUHTの殺菌法を採用している会社が落札して、給食に提供するようになったとき、小学生たちが「この牛乳焦げ臭い」といったそうだ。

 たぶん私たち大人には、もうそのような味わい分けをする味覚はなくなっていると思うが、そうか、ヒトの味覚というのも、新鮮なうちに持っていたものが、時代や市場に適応するとともに失われていったのだと、痛感した。いいとか悪いとかいうことではないが、早くて安全な超高温殺菌法にいち早く飛びついて、それに身体を適応するというのは、「自然」から離陸することなんだと思った。

 だから先に述べた七種の牛乳製品というのも、どれを「おいしい」と思うかも、じつは時代とともに変化している。ただ単に「好き/きらい」というだけだと、人さまざまだから、で話しは終わる。だがその「好き/きらい」という感性は、「自分が変わっていっている」ということだという認識をもつと、自分が何に適応して、どのように変わっていくのかみてとるようになる。「ボーっと生きてんじゃねえよ」とチコちゃんに言われるまでもなく、自問自答して生きているのが人生ってもんだよと、うれしくなる。

 上記のことごとが、じつは、牛乳パックには、表示されているそうだ。SRさんはパックに表示されているサンプルを印刷していもってきていた。そこには、乳成分はもちろん、殺菌法に採用した温度や秒数、「公正取引委員会」の規準をクリアしていることまで記されている。

 ふだん私たちは、その表示を目にも留めない。安心しているからにほかならない。それだけ社会に身を馴染ませているわけだし、社会の方もまた、安全基準や製法の安定性について、目配りをしているという相乗効果の積み重ねがもたらしたものだ。のほほんと生きる、ちゃらんぽらんでも問題はない暮らしができる。

 それにはしかし、端境がある。社会インフラにせよ、相互関係の信頼性にせよ、グローバル化の時代だから、どこまでも等質ではない。海に囲まれている私たちは、ともすると、その端境を忘れてしまう。外国の危うさが、通販にせよネットにせよ、すぐそばまで押し寄せてきている。あるいはまた、それに対抗するために、日本国内の企業もまた、危うい領域に踏み込んで、厳しい競争を引き受けなければならなくなっている事象が、頻発している。会社経営の基本がなにかも、昔とは様変わりしている。

 ちゃらんぽらんの、いい加減なアナログ的な暮らしかたが身についている私たちの身体感覚は、日本が日本という共同性気分に囲まれていた時代の名残のように思える。そして今、私たちの暮らしにかかわる時代と世界は、大きく変容していっている。ちゃらんぽらんは、むろんYES/NO時代には受け容れられない。無理にでもYES/NOのどちらかに判断を決める仕組みが、社会全体を覆うようになっていく。社会こそが、「ボーっとかたちづくってんじゃねえよ」と言われるようになっているのだ。「自然」がもはや通用しない。身体の自然と感じる反応=じねん(自然)は、どこに標準があるのかさえ、わからなくなっている。まいったねえ。どう振る舞うことがわが身に合っているか、それすらわからなくなっているのか。

 己の欲するところに従いて矩を越えずと言われてきた。だが、はたして何が欲しているのか、そう仕向けられているのかもわからない。むろん超えているかどうかの「矩」もまた、わからなくなっている。そう言えば、人類は、ボーっと生きてきたんだろうか、それともいま、豊かな社会になって初めて、人類はボーっと生きるようになったのだろうか。チコちゃん、おしえてちょうだい。

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