2018年12月18日火曜日
できることしかできない
今もまだ、団地管理組合の「高齢化問題」の出口を探っている。今朝方、夢うつつで思い浮かんだことがあった。団地住人の高齢化というのは、団地そのものの高齢化と同じではないか、と。
自分たちの暮らしは自分たちでどうにかするしかない。団地の理事会というのは、われらが身の神経系統のようなもの。状態に応じて勝手に動く自律神経もあれば、自分の意思で動かせる体性神経もある。
28年も経ってみると、理事会の運営もある程度ルーティンワークになって、これこれこうするものというのが「慣習」になっている。月一回の理事会とかその都度発行される「理事会ニュース」とか「議事録」をとることやクリーンデイや防災訓練のような年中行事など、「定番メニュー」。わが身の「心の習慣」というのと同じだ。これが安定していると、運動すれば心悸亢進したり血圧が上がったり、ものを食べたら消化器系が活発になるのと同じで、自律神経に属する。
他方、大規模修繕とか、給水管・給湯管の更新工事のように、建物が高齢化すれば意思的に取り組まねばならないことがらもある。これが、専門的な知識を動員する必要もあり、そのときどきの市場ともかかわって、なかなか面倒になる。だがそれをわが団地は、修繕専門委員会とか環境小委員会を設け(住民の中の専門知識を持つ人の貢献を得て)、よく手入れを行ってきている。いわば、日ごろ身体に気遣い、食べ物にも運動にもそこそこ手当を施して、健康体を保ってきたと言っていい。
ところが、住民の高齢化によって、理事が務まらない方が出来するようになった。おおむね10~9戸につき一人の理事を階段毎に出すようにしてやってきたが、居住しなくなる所有者がいたり、一時的な転勤や海外勤務などで理事を務められない人や、文字通り身体の自由が利かず、お役が務められない方が増えてきた。8年に1回とか7年に1回となって、「不公平だ」と思う方も出てくるようになった。どうしようかという問題を抱えているのである。
だが1年任期を2年任期にしたら解決するかというと、そうではない。結局、業務の軽量化を考える以外にない。近頃は住宅管理に関するサービスが増えて、「業務サポート」を行う仕組みがある。それが月々6万円ほどとなると、すぐに1戸当たりを計算して、月500円ならまあ、高くないかとそちらの方へ気分は傾いている。これは高齢者が介護サービスを受けるようなものだ。
中には、すっかり第三者機関に委託するということもできる。最近の超高層マンションは、ほぼそうなってきているようだ。何とかコンシェルジュというのが玄関口に陣取って、セキュリティチェックもしている。だが当然こうしたマンションの管理費は高くなる。その管理会社の従業員が管理費を使い込んだという事件も起こる。これは高齢者が養護老人ホームに入るようなことだと、私は思っている。
では、わが身のこととして考えるとどうなのか。
わが団地は、まだ若い。今年4月段階の世帯主は、80歳代…5人、70歳代…26人、60歳代…44人、50歳代…29人、49歳以下13人、不明・不在…10人となる。平均をとっても中央値をとっても、おおむね60歳代の半ばである。まだ、養護老人ホームに入る歳ではない。この28年の間に世代交代も進んでいるとみてよさそうだ。高齢化というよりもむしろ、現役の働き盛りの方が理事を務めるのが苦しいと感じているのかもしれない。そう、後期高齢者の私は推測している。
これまでの管理組合のコンセプトは「自前管理」であった。もちろん修繕などの専門的なことは業者に委託するが、その発端の「提起」は、理事会とか修繕専門委員会が行ってきた。それがそれなりに適切であったこと(と建築段階の幸運)から、いまも専門家が「70年間は大丈夫」と建物の寿命を見る、健康体でいるわけである。だがそろそろ、補修などに手がかかる時期になる。だがそれらについては、修繕専門委員会という専門機関が機能していて、信頼の高い企画立案をしている。植栽の剪定なども、専門事業者を交えて、環境理事の補佐機関として環境小委員会を設置して、年に二度の剪定なども細かく決めてきている。つまり、高齢化に伴って難しくなっているのは、それほど多くない。
自前管理をつづけることが重要なのは、委託先の都合で振り回されないことだ。国土交通省も介在して、業者が面倒を引き起こさないように(コンプライアンスだとかサ―ビス内容を、毎年、全組合員に説明せよとか)しているが、それは経費に跳ね返ってきている。いまの担当者は、優れていていいが、いつそれがひっくり返るかわからないという不確定性もある。28年間かけてルーティン化してきた「定型業務」を大切にする趣旨もある。そうしたとき、「高齢化に対処」するとしたら、「できることしかできない」と肚を括ることではないか。
いまのご時世、高齢化は致し方のないこと。緩やかな世代交代をしながら持ち堪えていくことを考えたい。そのときの基本的な視点は、次の二点です。
(1)できることしかできない。
(2)できることをできるだけ(知恵と力を集めて)、精一杯やりましょう。
「できることしかできない」というのは、今の輪番制の理事・役員体制をとっている限り、年によってはとても「消極的な」理事会が管理業務を担当することがあり、それはそれでしょうがないと認めることだ。いや単に「消極的」というのではなく、近ごろのパソコンを使った文書処理などができないということもあろう。身体の自由が利かずルーティンワークをするのに手助けが必要ということもあろう。こうした輪番によって生じる理事の個人的な事情がもたらす結果を、団地全体として承認することが必要だ。団地をよく知る住宅管理会社のある担当者は「1年任期ならばリスクが少ない」と表現した。リスクを1年という最小限にとどめる。
「できることしかできない」のなら、これまでやってきたことをダウンサイジングする手もある。28年間の間に、理事会の業務が(ある部分では)たいへん綿密になってきていることに気づいた。「議事録」だ。理事会の議事録と修繕専門委員会の議事録の二通りあるが、いずれもが、会議におけるやりとりを記録している。しかもそれを次の理事会(修繕専門委員会)で綿密に用語検討をして、修正し、記録ファイルに綴じている。昔もそうだったという記憶がない。もっと簡単に、なにが決まったかを記録するだけではなかったか。
つまり、業務を軽減する。具体的には最小限にとどめる。たとえば「議事録」。議題と決議されたことと、保留された事柄、今後に持ち越されたことに限定して、結論的にまとめるだけにする。いまのように取り交わされたやりとり、どのような異議が出たかにまで踏み込まない。ニュアンスを伝えるには至らないが、それはそれで肝にして要を得ているので良しとする。
もちろん、「理事の個人的な事情」を団地全体で受け止める代替案もある。それが(2)だ。
ひとつは、各階段から選出される理事を務められない方の分を、輪番年数は短くなるが、該当階段全員で引き受ける。それには、「個人の事情」を団地全体に広げず、階段内にとどめるという利点もある。階段の事情を「相見互い」と承知することは、コミュニティの基本だ。
もう一つが自助システムをつくることだ。いわば団地全体の知恵と力を集めて、できることはやりましょうとする体制をつくる。28年経って、私も理事を務めるのは4回目。理事長は今回だけだが、理事長を務めることではじめて、団地の管理がどのように動いているかを意識するようになった。どなたかのことばではないが、「人は切羽詰まらないと考えない」代表のような(お恥ずかしい)感覚だ。それは裏を返すと、理事長を務めた方々は、何がしかの意味で、団地の全体を受け止める感覚を味わっている。その人たちが高齢になっていることは認めるが、28年間の理事長のうち元気で動ける人たちだけでも、自助システムとしての「ワン・ポイント・リリーフ」ならばできなくはないだろうと、考えている。
今朝方の思案は、わが身への見切り、わが団地への見切りである。できないことはできないと(関係する皆さんに)表明することでもある。これは、これまでの人生をどう過ごしてきたかによる。ひとによっては、とても難しいことかもしれない。でもそれを包み込むくらいの「かんけい」を築かなくては、共同的な暮らしを営む団地とは言えまいと思う。
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