2018年12月26日水曜日
階段の集まり
一昨日(12/24)、団地の理事を選出している私の階段5戸と組み合わせ上一緒に輪番を組んでいる向かいの号棟階段の4戸、あわせて9戸が集まり、来年度理事送り出しの確認を行った。自画自賛であるが、こうした集まりを持ってもらってよかったと好評であった。
なんでこんな集まりをもったのか。じつは、28年目にして初めて顔を合わせ、言葉を交わす人びともいたのであった。つまり、この団地発足のときに、「輪番」を決め、それが何の不思議もなく順調に守られてきたために、翌年度の理事のことをだれ一人心配することなく、伝言ゲームのように継承され、したがって、前の方と次の人以外は、顔を合わせることもなく、名前も意識したことがないほどというわけ。まあ、そうはいっても、同じ階段の人たちは、28年の間に出くわすことがありますから、顔と名前はわかります。でも向かいの号棟の方は皆目わからない状態でした。私が理事長を務めたから、こういう集まりをもつことを考えたのは、確かです。
用意した「資料」は、28年間の「階段理事・役員履歴」と2016年と2017年につくられた「理事・役員交代制に関するメモ」二つ。たまたまこの二つのメモをつくった方が、2016年と2017年のこの階段から出た理事だったために、今年の私に引き継がれてきたものでした。ま、このお二人に、目を通してますよというお披露目でもあった。
何よりこの階段は、他の12階段に比べて、理事・役員選出階段としては平均年齢が最高の71歳。上記のお二人というのは、今83歳になる方です。上記の「メモ」にも、85歳を超えると「理事・役員免責」にしてもいいんじゃないかという考えが盛り込まれていました。今回のような階段会議をもったのを高く評価したのは、その最高齢者の一人でした。
だから「JSの業務サポート・サービス」を検討対象にしていることを告げると、「それはいいじゃないか」という意見と「いや、それ(のサポート)はたいしたことではない」という意見が出されて、なかなか興味深かった。そのやりとりを聞いていて「今のお二人が理事・役員免責などというと、怒りますよ」と混ぜ返すほど、意気軒昂。ただ、身体が自在に動かないことやボケが来たらという不安が、「高齢化問題」を提起させていると思った。
平均年齢がもっとも高い階段ではあるが、この28年間、「輪番」の順序は狂うことなく保ててきた。「もし何かあったら」という不安にどう応えようと考えているのかと問われた。7年に一回くらいの順番になっても階段で送り出すようにしたい、今日はそれを皆さんに伺うために集まってもらった、と考えていることを話す。おおむねそれは賛同を得た。
だが、最高齢者は、金銭を払ってでも、「免責」してもらう仕組みがあるとうれしいと考えていたようだ。心的負担に思いを及ぼしていたのであろう。しかし、心的負担がないというのは、いわば金銭的な「交換」をしている感覚ではなかろうか。「代わる」ものにとって、それはいやだなあと思う。ボランティアを「好きだから(そう)している」というのは、まちがいないが、でも、そのように受け取るセンスは勘弁してもらいたいと、私の内心のどこかが反応している。階段がカバーしている限りは、自助努力と考えてもらった方がいいのではないか。
(階段による)自助努力というのには、「共に暮らしている」という感覚が、働いている。だが金銭で交換しているというのには、対等な取り引きだという感覚が横たわる。それは仕組みで作られた関係から具体的にかかわる人々の顔が蒸発した社会の姿だ。それがイヤなのではないか。大きなモンダイだと思う。これまで過ごしてきた時代が構成してきた「感覚」である。ちょうど戦中生まれ戦後育ちの私たちの生きてきた時代が、昔ながらの紐帯に結ばれた(息苦しい)世界と資本家社会的市場関係にどっぷりつかって(厳しい競争関係を)夢中になって走ってきた世界とが、分かちがたく共存してきた時代であった。
自身の内心を腑分けしたところで、どちらかに決めてしまうことはできない。ドライに「交換関係」とみる人もいようし、「共同的関係」とみる人もいよう。その混在を承知して、具体的な場面でひとつひとつ始末しながら先へ進むしかないと感じている。
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