2018年12月28日金曜日
80歳過ぎが面白い?
渡辺京二の名前を知ったのは、もう30年以上も前のように思う。私の十歳上の知人が彼の著書を面白いと教えてくれた。以来、何冊か目を通して、どこか「在野の知識人」というニュアンスを感じて、好感を持っていた。その彼が今朝の新聞に登場して以下のようなことを述べている。
《興味があちこちに飛ぶのでやっぱり学者にはなれませんし、同じように生きるのでは。後悔があるとすれば、人に対する態度というものが、ずっとわかっていなかったことだけですね。本当に分かってきたのは80歳を過ぎて、この数年のことでしょうか。》
彼はいま、米寿ほど。(たぶん)私と同じ午年のはず。上のことばは「もし人生をもう一度、やり直せるとしたら?」という問いに対する答えの冒頭。「学者になれない」というのは、痛烈なアカデミズム批判でもある。石牟礼道子の仕事の手伝いをしてきたことをふくめ、彼の視線がどこから発せられてきたのかを示している。「後悔があるとすれば……」というくだりは、私自身の感懐と重なる。若い頃を振り返ると、とくに、そう痛感する。出会った人たちには申し訳なかったなあと臍を噛む。でもそういうふうにして、いまの私がかたちを成してきたのだとも思う。
それにしても「本当に分かってきたのは80歳を過ぎて」というのは、驚きであった。つまり、私が日々(ひぐらしPCに向かいて書きながら)感じていることが、まだ「本当に分かる」ことになっていないのか。もう一段深いところに、「本当に分かる」ことが横たわっているのか。それとも、渡辺京二の歩き方を歩かなければ、そこに行きつかないのか。いや、そういうことはあるまい。彼はそういうことを言う人ではないからだ。
それにしても、「80歳過ぎてから」、まだ面白いコトがあるのだとしたら、〈思い残すことはない〉などと分かった風をすることはない。もっと長生きしたいというわけではないが、渡辺京二のいうような言葉を聞くと、長生きするのも悪くないと思えて安堵する。
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