2018年12月8日土曜日
考えておきたいことごと
ちらりと頭をかすめ、ふっと湧くように心の片隅に兆しを感じ、でも次の瞬間には忘れてしまうようなことごとが、日々起こり消えていっている。そのちらりがまとまったら文章にしようなどと考えていたら、全部蒸発してしまう。せめてメモでも取っておきたい。
まず、そのひとつ。藤田知也『日銀バブルが日本を蝕む』(文春新書、2018年)を読んで気になったこと。
この本は、日銀担当の新聞記者が黒田日銀の姿を追ったドキュメンタリー。そう、私は読んだ。本にしなくてはならなかった文体である。新聞記事だと、黒田が何を目指し、どう発言し、それがどう日本経済に影響してきたかを客観的に記録・報道する。このときの「客観的」というのは、書き手の立場がどこにあるのか、あたかも証拠隠滅のように消し去っていることを指している。
だから新聞記事は読んでいて、どこか腑に落ちない思いが残る。腑に落ちないというのは、読み手の立場とどこかズレていることに起因することが多い。ところが文中に著者の顔が出てくる。取材相手の日銀幹部がちょっと細かい関係事実をとりだしてごまかそうとしたとき「それくらい私も知っていますよ」と食い下がっていることを、さらりと記している。こんなことは、新聞記事には載ってこない。
もちろん著者の足場は庶民の暮らしにある。それを、そう書いているわけではないのに、日銀幹部の振る舞いと言説を並べてみると、ああ、資本家社会経済はとうとう人びとの暮らしからも離陸してしまったと思う。
私たち庶民は、と書くと、庶民を隠れ蓑にして愚痴を垂れ流すだけの無用の言説と受け取られる。だが戦中生まれ戦後育ちの私たち庶民は、親の世代の気質や文化を受け継ぎながら、しかし、無謀な戦争に突入していった親の世代の暴走を痛切に体感して、国家と社会が分離していると受け止めてきた。その両者を分離させて自分たちの暮らしを見て取ることで、国家の運びに付き合うことをほどほどにしておくことにしたのだ。よく、選挙の投票率が低いことを「声なき大衆」として支持票に加えようとする言説に出逢ってきた。政治社会を大前提にした人たちには、そう読み取れるであろうが、私などからみると、愛想が尽きて「民主政治社会」という大前提にも、もう付き合わない人たちが増えているとみえる。戦後社会の、「経済一本槍」路線は、政治社会的には戦争のない平和な関係をつくりだしてきた。それが(対米的に)屈辱的かどうかは、政治社会に生きる人たちには重大事であったかもしれない。だが、庶民の暮らしにとっては、国民を保護するよりも国体を保持することに懸命であった為政者たちの思惑など知ったことか、であった。
話を日銀に戻す。日銀の政策決定の軸が、もはや庶民の暮らしにないことが、この著書を通して明らかにされていく。彼らの関心事は、株価であり、円の相場と輸出産業の利益であり、物価の2%であり、投資の行方である。その彼らの関心事の達成意欲が正当化され保持され続けるお蔭で、ますます泥沼に入り込み、庶民の暮らしをいずれ直撃する、経済的な混沌に向かっている。そのしりぬぐいをもはや日銀ができるはずもない地点を越えているのではないか。本書はそう記していく。
つまり私たち庶民からすると、資本家社会経済システム以外に生きる手立てはないと、長く考えてきたけれども、ぼちぼち、そのシステムともほどほどの付き合い方を心得て、もちろんそれに組み込まれているところではそれなりに付き合うが、そのシステムの一部を使えるだけは使って、できるだけ「自律」する要素を増やしていく「暮らし方」を考えなければならないのではないか。国家も政府も国会も司法ももちろん、もう私たちを守ってくれそうにない。彼らは資本家社会経済を保持しようとして、それが正義だと信じて振る舞っている。そのシステムの現実展開がどのように庶民の暮らしに軋轢を齎し、悲惨を生んでいるかに届く目をもたない。このところの水道事業の民営化や外国人労働者の処遇にまつわる法律のつくり方をみると、彼ら為政者はおおむね、どこかの利益団体の回し者ではないか。「当の問題」に真剣に向き合う志など、端から持ち合わせていない。そう受けとめるのが、妥当な現実判断というものだと、心底思う。
つまりここで起こっているのは、資本家社会経済から、私たち庶民の暮らしを分離して考えはじめなければならないということではないか。かつて、国家と社会とを分けて考えることによって、自らの暮らしの自在さ(の気分)を手に入れたと同様に、今度は、経済システムと社会とを分離してかたちづくるような考え方を、軸に持ち込まなければならないのではないか。
著者・藤田知也もそう感ずいているようで、「日銀マンが外貨建て債券を買っている」と末尾の方でとりあげている。日銀マンも、その人の暮らしの側面からみれば、ただの庶民。賢い彼らは、すでに日銀の日常の振る舞いと仕事が「日本を蝕みはじめている」ことを感知して、自らの暮らしにおける(資本家社会経済との)危ない関係を上手にわたって、日銀の作用する深い関係から離脱するべきは離脱する道へ踏み込んでいるのかもしれない。その日銀マンにとって日銀の仕事は、身過ぎ世過ぎということになる。貨幣を中軸とした人々の暮らしをの安寧を保つという日銀の使命は、どこかへ忘れてきてしまっている。
年寄りの愚痴と聞いてもらえばいいのだが、国家ってそんなものだし、今の社会の偉いさんたちってのもそんなものだ。私たちの社会と資本家社会的仕組みは、骨がらみで絡まり合っているから、「分離」するって言っても、どこをどう分けてしまったらいいか、わからない。でもね、資本家社会的経済がうまくいけば私たちの暮らしもよくなるという「物語」は、もう成り立たないとみてとることはできる。そうなると、私たちを取り巻く社会の作り方として、それとは違った「ものがたり」を醸成して、新しい関係を紡ぎだしていくしかないではないか。
フランスの庶民のように、デモをして、火炎瓶を投げて政府のガソリン税の値上げを阻止するような文化的伝統をもたない私たち日本の庶民は、静かに面従腹背して、てめえら勝手にしやがれって、政治家や経済社会の偉いさんたちに毒づきながら、こちらも勝手にさせたもらうわって具合に振る舞えるよう、ひとつ知恵を絞ろうじゃないか。そんなことをぼんやりと考えている。
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