2018年12月9日日曜日
酪農というノスタルジーの真実(2)牛乳の需要と供給
「最近、放牧の牛を見たことある?」
とSRさん。
「うん、見たことあるよ。つい先日も」
と私は応える。
「ウソだよ、放牧の牛なんていないよ」
はて、どこで見たっけ。石垣島で見たのは幼牛を肥育して本土へ和牛として売ると言っていた。あれは、去年か。吐噶喇列島の平島で観たのは、今年の4月か。
うん? 牧草地はたびたび歩いている。利尻島や礼文島やそこへ行くまでの稚内の牧草地では、あの大きな牧草の塊をつくっているのも見た。山梨や長野、新潟の山へ行く途上でもよく見かけたように思ったが、牧草地をみたのか、牛をみたのか、問われてみれば判然としない。そうか、たしかに牛を観たというのは、あれは今年の5月、中国のシルクロードへ行った時だ。たくさんの牛が放牧されていた。雪の高山地帯ではヤクの群れも見かけた。阿蘇の放牧は、TV画像だけの創作というわけではあるまい。
SRさんによると、昭和41年に45万戸あった酪農農家が平成30年には1万7000戸に減っているらしい。4%弱。96%は廃業した。しかも乳牛の大部分は、機械化されているから、牛舎から外へ出ることがない。放牧をみたというのもほとんど肉牛だろう、と。とすると私たちがのどかな牧草地で草をはむ牛をみたように思っているのは、画像のなかなのかもしれない。すでに失われた原風景を現実のものとみているのは、まさにノスタルジーの極みだ。
ホルスタインという牛は1頭700kgあるそうだ。前回記したような人工授精で4~5年間搾乳する量は、1975年頃は1頭4500kgほどであったのが、2016年には8500kgまでに増加したという。体重が200kgほど小さいジャージー種と掛け合わせるのも、脂肪分を増やす必要があるから。飼料なども変えて市場の需要に適応してきただろうが、それはまた、別の副作用を生み出すようになっている。
思い返せば1960年代の初めのころ、所得二倍政策と池田勇人が打ち出したのに対抗して、社会党が掲げたのが「牛乳二合飲める暮らし」であった。もうすでに私たちには遅かったが、毎日飲むと背が伸びると言われていた。SRさんはカルシュームの話しにも踏み込んでいた。いまは背が伸びることは期待しないが、骨粗鬆症にならないように気遣っている。CaCo2とかMUPが入っているとか、吸収性がよいとかと、話題は転がっていく。美味い牛乳と問われて、脂肪分の話しに集約されていく。
加工乳や脱脂粉乳、ロングライフ牛乳や粉ミルク、ごく最近日本でも販売可能になった水に溶いたミルクなど、製法がまるで違うものや保存技術が違うから可能になったことなど、四方八方に話は広がりを見せる。豊かな社会になったものだ。美味い不味いと言って選ぶことも自在になった。でもこれって、仕組まれた市場需要じゃないの? と皮肉な思いがちらりと頭をかすめる。
スーパーの棚に並ぶ牛乳の各種、搾乳から店の棚に並ぶまでを聞くと、途方もない酪農農家の努力が目に浮かぶ。
「搾乳 → クーラー → ローリーのタンク → 殺菌 → ホモゲナイズ →」
と、ここまでで1リットル当たり100円だそうだ。加えて、
「船舶輸送 → パック詰め → 配送 → 店舗」
と流通過程に乗るのだが、これでだいたい75円ほどが加わり、175円から200円ほどで販売されている。この価格が妥当かどうかは、私にはわからないが、この値段があってこそ、毎日の食卓に牛乳や乳製品が上がっていることは、間違いない。いまは高いかどうかを気にせず冷蔵庫におかれ、夏は水がわりに、あるいはヨーグルトになったりしている。
驚いたのは牛乳を飲むのは日本くらい、欧米では牛乳は飲まないという。
えっ、そうかな?
欧米を旅した時のことを思い出そうとする。朝のバイキングには、牛乳があったような気がする。日系のホテルでしょうと言われる。そうかもしれない。日本の軟水が牛乳に馴染む。硬水の欧米では薄めることもできないから、バターやチーズに化けるのだそうだ。でも「成分無調整」の牛乳って、薄めたりしていないんでしょ? 欧米でもそうやって消費しているところはあるんじゃないの? と思ったが、口にはしなかった。1万年近くかけて築いてきた文化の違いは、たしかにあるだろう。でも、このグローバル化の時代に、牛乳が飲料水として呑まれていないなんて、ちょっと不思議な気がする。
アジアはどうなんだろう。中国や台湾、韓国、東南アジアや南アジアでも、牛乳がない! と思ったことがないから、あったような気がするが、もうこちらもすっかり記憶が定かでなくなってきているから、口にできなくなったのだった。
でもそうやって比較文化的に、目を凝らしてみると、牛乳一つとっても、面白い。(つづく)
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