2018年12月3日月曜日

ボーっと生きてる


 昨日(12/1)は二か月に一回のセミナーseminarの日。岡山県の玉野市に暮らす喜寿の方がやってきて、講師を務めた。酪農にかかわってきた方。牛乳に関する話しの、ほんの触りだけだったが、「ボーっと生きてんじゃねえよ」と叱られるような面白さがあった。


 その仔細は稿を改めて記すが、いくつもの驚きの連続であった。
 牛乳を飲むのは日本くらい、欧米では牛乳を飲む習慣がないという。
 牛乳の殺菌方法二種の話し、低温殺菌と高温二秒殺菌ということも、いわれてみるとほぼ初耳に近い驚きがあった。
 あるいは、牛の寿命は20年くらいあるというが、乳牛は4,5年ということも、聞いてみればなるほどと思う。そこまで考えることもなく、ふつうの寿命くらい生きているように思っていた。
 あるいはまた、関西は牛肉を使い関東は豚肉を使うということを、半世紀以上も前に東京に出てきて知ってはいたが、それがどうしてなのかは、考えたこともなかった。北海道でジンギスカンを食するというのも、もっと生理的な理由があったのだという。

 牛を、その業界では「経済動物」と呼ぶという。しかも、遺伝子操作で雌しか生まれないように選別されているとなると、もう工業製品というしかない。人の手がかかって「製品」がデザインされて制作されるように、牛が操作され肥育される過程で、デザインされていくことを耳にしてはいたが、これほどまでに「生きる」ことの奥深くに手が入っていることを聞いて、私は、自分の存在の裡側にコトが入り込んできているように感じていた。つまりデザインされているのは、単に「製品」ばかりでなく、それの消費者もまた、デザインされて作り替えられているのだ、と。

 知らなかったことの驚きというのでは、正確ではない。それよりも、「ボーっと生きてんじゃねえよ」と叱られる感触といおうか。それは、自画像を描くこともなく外ばかりを見つめていてはあかんよ、と叱られているという気分だ。外ばかりみていると、事象はどんどん肌の表面を掠るようにして飛び去って行く。心が皮膚の表面に張り付いている「かんけい」の感知装置であるように、肌触りという感触は記憶に残る。おいしいとかおっ、美しいとかおもしろいという、心地よさを感じて、それでよしとしている。そしてすぐに、次の事象へと心移りしているように思う。

 その事象が、はて、なんであり、誰がどうつくり、いかに運び、どこから来てどこへ行くのかへ視線が向かない。そういう由緒や来歴に目が向くのは、たぶん皮膚感覚の心地よさだけでなく、違和感を介在させる視点が必要なのではないか。そのように視線が向かないと自画像は描き出せない。自画像を描き出すというのは、自分の心の習慣になってしまったことごとを、一度わが身から引きはがして、外へ視点を移してみつめること。つまり自己を対象としてみる視点と視線の操作が身に着かないとできないように思う。

 「チコちゃんに叱られる」という番組が面白いのは、ただ単に「知らなかった」からではなく、「そうか、そうだったのか」と(知らなくても平気で生きてきている)わが身の輪郭を描き出したような感触が含まれているからだ。まず、そんなことを感じたseminarであった。

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