2018年12月7日金曜日
転機を図る
12/5(水)に登山口を登ろうとしていたら、ケイタイが鳴る。電話に出るとまだ現役の仕事をしているK君から。珍しい。「今日はこれから山なんだよ」と応じると、「ご相談がある。いつ戻るのか」という。夕方にと応えて、山へ入った。この山は、CLが骨を折ったので「よろしく」と頼まれ、ま、今週の山にでもしようかと先月末に歩いた。CLは別の人に変わってもらい、今日はその人に全部お任せ。あとで聞くと、彼女は、このルートの後半を歩いたことがなかったので、知人に頼んで先週下見をしたという。私の下見と一日違いだったが、せっかくのことだから、私は口をつぐんではじめての山のようについて廻った。
先週と違ったのは、紅葉が一挙に進み、山全体が見事に黄色や赤茶色に変身していたことだ。里山がこのように変わると、町全体の印象が際立つ。ルートも明るくなる。皆さんおしゃべりしながら、ゆっくりとだが、快調なテンポで上る。落ち葉が足元を埋めて、風が吹くと舞い上がる。標高差200mほどというのがまた、ハイキングに合っている。CLはどこに何時何分と想定しているのか、早すぎるとか時間を気にしている。そんなことをしなくても、皆さんの調子を見て、歩けばいいのにと思うが、言わない。
じつは実施する前の転機予報が悪かった。一週間前は「雨80%の降水確率」であった。ところが三日前には「降水確率は40%」になり、今朝は「曇りのち晴れ」。CLは、実施するかどうかヤキモキしていたが、「さすが晴れ女」と褒める人もいた。昨夜はかなり強い雨が降ったとすこし南の町に住む人は言うが、足元はカサコソと乾いた落ち葉の音がする。おや、ツツジが花開いている。このところの温かい気温に狂い咲きだ。
先週の私と違い、20分ほど余計にかけて鍾撞堂山に山頂に着く。南に開ける眺望が見事だ。手近の山肌は色づきに覆われてきれいだ。遠方の山並みもまた、濃淡を加えた色合いが陽ざしに輝いている。結構人が多い。にぎやかにおしゃべりの声が聞こえる。一人の見知らぬ女性が「ほらっ、スカイツリーが見えるわよ」と、休んでいる私たちに声をかける。ハイになっている感じだ。
次の山へ向かう。いったん県道へ下り、その向こうの虎ヶ丘城址に登る。舗装道路に下ったところで虎ヶ丘の山全体が見える。そのピークのどこが虎ヶ丘と聞くが、CLは「下見は連れてきてもらったからわからない」と応える。自分の判断というのをたいせつにしている人なのだ。地図の検討で「あの左端の一番高いピーク」といえな意のはなぜだろうと、私は考えながら、後をついて歩く。
虎ヶ丘への踏路は、私が先週とったのとは違うルート。これはいい上り道であった。山頂にはすでに先着の若い女性がいて、コンロに火をいれて湯を沸かしている。一人歩きだ。下の物産センターであった年寄りの二人連れが遅れてやってくる。11時半、お昼にする。赤城山から日光男体山、女峰山まで見事に関東平野が見渡せる。風が少し冷たくなる。北の風が入るようになったのか。12時に出発。陽ざしに向南へと歩くから、逆光の紅葉がひと際美しい。先頭に立ったmsさんがテンポよく降る。mrさんがついていく。最高齢のoktさんがバランスに注意しながら、私の前を歩く。コースタイム60分のところを40分で降り立った。
かんぽの宿でビールを飲み、秩父線の電車に乗って帰宅した。その途次、今朝ほどのKくんから明日にでも時間をつくってほしいとメールが入る。翌日私には忙しい予定が入っていた。団地の修繕積立金の説明会資料を印刷するという仕事だ。全部で44ページ分の140部。要愛の仕事は土曜日だが、プリントアウトまではやっておかねばならない。「15時なら大丈夫、東浦和の駅まで来てください」と返信。
さて12/6(金)、朝方私のパソコンで原稿をプリントアウトしておく。それを持ち込んで、10時20分から作業開始。第一部、20ページ140部。第二部、16ページ140部。それぞれの表裏紙裏表印刷、140部。鏡書き140枚というわけ。プリンタは滞りなく働き続ける。紙が足りなくなるのを補えば、良いだけだから、そばで本を読んでいても構わない。でもなんと、14時40分までかかってしまった。
何とか約束時間前に駅前にいく。Kくんはもう来ていた。彼はいま、ある学校の副校長をやっている。校長になればいくらかでも、自分流の学校経営ができるのであろうと、希望をつないできた。だが彼を当局は受け入れようとしない。副校長としての勤務や成績が悪いのかというと、そうではない。四段階の上から「2」、校長になる人は「3」の人もいるというから、まず合格ラインなのだが、最後の面接で「不合格」となる。もう何年もそれがつづいている。Kくんは副校長を降りて、ただの平教師に戻ろうと考えているという。その「返答」が明日だというので、急遽私に「相談」を持ち掛けたという次第。私には副校長というポジションがどういうものだか、わが身の体験としてはわからないから、「相談」を受けても役に立つとは思えない。だが、彼は(たぶん)自分の決断を聴いてもらいたいと考えたに違いない。その相手として、私が思い浮浮かんだのであろう。私はもう現場を離れて、16年も経つ。現場自体がすっかり様変わりしているとも聞く。
子細は省くが、午後3時にあって、一度場所を換え話し込む。ふと気づくと、6時を過ぎている。私は家へメールを送り、夕食は済ませておいてくれと伝える。お酒を入れる。彼は自画像を描くように話す。熱燗を飲んでいたのに、焼酎のロックに変わる。お代わりを何度もする。私はお酒が弱くなったと思いながら、ゆっくり少しずつ飲む。お開きにしたときは、9時半になっていた。いやはやすさまじい、おしゃべりの洪水。日頃よほど話すことがないのかもしれない。そうか、副校長というのは、とても孤独なポジションなのかもしれない。平教員は、当然管理職のいうことを聞くが、いやなことは聞き流す。もちろん反論して議論をするようなことはしないだろう。どうしてもやらなければならないところはそれなりに付き合うが、手を抜くことができれば、知らぬふりを通す。校長は(私のみていた範囲でも)教頭の生殺与奪の権を握っている。そして校長もまた、県教委や都教委からの指示や通知をどんどん副校長に回す。現場の教師たちに伝えるのは副校長の役目だ。Kくんは校長の覚えはいい。そうでなければ「2」の成績をもらうことはできない(だろう)。だから余計に、副校長の位置にいて、校長が極まるような反抗をすることができない。Kくん自身が、置かれたポジションを全うするのが、当然のありようという規範を身に着けている。私なぞは、遠慮会釈なく、我流の現場第一を通して、自在に振る舞ってきた。そんなことは彼の神経が許さないという。そのようにして彼の自画像が描き出される。
でも、平教員に戻って何をしたいの?
あれやこれや、彼自身が副校長になって7年の間我慢してきたことが、こぼれ出てくる。でもその大部分は、彼自身の思い込みに近いものがあって、実現可能性はおぼつかないと、私には思える。結局6時間余の時間たって、彼がこぼした言葉が根柢にあると思った。
「現場に戻って、一緒に仕事をする人とのかかわりがもちたい」
つまり、教師としての思いや傾きや誤解などを言葉を交わしながら、繰り出し、修正し、実践し、検証していくような、共同的体験をするときの人との交わり、それこそが彼の今求めていること。副校長というポジションでは手に入れることのできない生き方を、定年までの後十年でやっていきたいと、口にする。それは私の腑に落ちる「転機に立つ」モチーフであった。
今朝、私のケイタイにショートメールが入った。「現場復帰を伝えました」と。一人の男が、自らの「転機を図る」決意をした知らせであった。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿