2018年12月13日木曜日

還る処


 昨日(12/12)、映画 『ガンジスに還る』(インド、シュバシシュ・ブティアニ監督、2016年)を観た。「コメディ映画」とwikipediaは紹介しているが、これを「コメディ」と名づけたのは、誰なのか記載していない。私にはコメディとは思えなかった。というか、もしこれがコメディだとしたら、人生というのはコメディだとも言える。哀しくも微笑ましいといおうか、哀しくもやがて微笑ましいといおうか。


 インドの聖地・ガンジスの上流バラナシ(私はベナレスと呼んでいたころ訪れたことがある)で死を迎えたいと思った父親とそれに付き添う会社勤めの(なんとも孝行な)息子。父親に付き添ってバラナシに行くというと、仕事をしばらく棚上げにしても良かった時代と、仕事に穴をあけるのか、ガンジスのほとりなら、ここの近くにでもあるじゃないかと口にする上司という対比も、時代の変わり目が十分後者重心が移っていることを感じさせる。

 いろいろな世相の、時代の移り変わりを描きとるのが、この映画の主題と言えば、それで映画批評は、お仕舞にしてもかまわない。だがその移り変わりに、かすかながら引き継がれていっているものがあることを、浮き彫りにする。爺と孫娘の交歓だ。父親も母親も娘において行かれる。孫娘は爺に縛られない自在さの実存感を感じている。文化の順接的な受け継ぎって、そういう距離を挟まないと難しいのだと、この監督は言っているように思う。親子では距離が近すぎて、継承は逆説的になってしまうこともあるわけだ。

 その距離を、この映画監督は、「所有感覚」とみている。息子を自分のものだと考えていたからこそ、期待もし、あれこれ指図がましいこともしてきた、と死期を前にして父親は感じる。その父親との魂のぶつかり合いを通して、息子は自分の娘との関係を見直す。それらを、ことばを通さず、振る舞いで見せるところが、映像ってものの強みだ。

 その描き方が、欧米的に深刻になっていないからと言って軽いと受け取り、コメディと名づけたのではないかと、私は思った。たぶん決定的に違うんだね、欧米とヒンドゥ的自然観とが。この違いが、生とか死というものを内心で戒律と引き比べて厳しく「査問」する欧米と、脱力したように「解脱する」ヒンドゥとの大きな違いに帰結する。孫娘が爺の死を悲しむ父親に、もっと喜んであげなきゃというように、介添えをする振る舞いが(たぶん)、キリスト教徒には滑稽に感じられるのであろう。だがそうじゃないんだよ。「神の救済」を深刻に受け止めているあなた方が、滑稽なんだよと、私なら言える。

 そう言えばこの映画の原題は英語で『HOTEL SALVATION』となっている。映画の中のことばは(たぶん)ヒンディ語だから、ヒンディ語で「原題」がどうであったかもチラシには書き記してしかるべきだと思ったが、どこにも書かれていない。SALVATIONは「(主にキリスト教で罪業sinからの)魂の救済(された状態)」と英和辞典は記している。映画の中の爺が身を寄せるところの名が「解脱の家」。「救済」というのは「神による救済」と、受動態である。だが「解脱」というのは実存の枷から抜け出す自動詞、または、抜け出ている状態を指し示す中動態である。タイトルの付け方ひとつで、落差を感じる。とすると、この映画を『ガンジスに還る』と名づける日本のセンスというのは、奈辺に位置するのか。

 私たちはガンジスをもたない。なぜなら、いま棲むこの地がガンジスだからだ。源流をもつガンジスと、世の中が移り変わるのは四季が経めぐること。私たちはただただこの地に止まり、土に還る。そう言えば近頃、樹木葬が流行りだとか。これもまた、日本の還る処を指し示している。私たちは植物に源を発し、植物に還ることを欲しているのか。

 そう言えばこの映画の最後の方で爺の詩が読み上げられる。「心にしたがえ」と。植物に還るのも悪くない。

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