2019年1月11日金曜日

奇才の源――若冲絵画の淵源


 澤田瞳子『若冲』(文藝春秋、2015年)を読む。図書館の書架でタイトルを見て手に取った。何年か前、生誕300年とか言ってなかったか。ボラニカルアートのように細密でいながら、植物画というよりは生態画というように生きている盛衰をとどめる。動物も、たとえば闘鶏の絵も、筋骨の動きを透かし見るように躍動的であり、尾羽の先々にまで動きの力が伝わっている感触が行き届く。その色遣いの艶やかさも、目を惹く。


 澤田瞳子はその若冲の絵に漂う彼岸の茫洋たる気配を嗅ぎ取って、絵師の創作の源を探り当てようと、この作品を仕立て上げている。異母妹に視座を据え、若冲の心裡を汲み取ろうとするとき、若冲本人の思いと傍らに身を置いてみている妹の思いとのずれが影を落とし、立体的な人の心を起ち上げている。それを読む私にとっては、享保年間から寛政年間にかけての90年近い江戸の人々の「世間」とその醸し出す息苦しさと、他人のことにかまっていられない放置放任がもたらす寛容とが、若冲を取り巻く人の心にかたちづくる桎梏として現れてくる。

 その桎梏を「闇」ととるか、「生きる真実」ととるか。貧しさなどをものともしない「作品」への敬意と称賛が掉尾を飾る。遥かその時代からここまで来てしまったという感懐を、わが胸裡に残す。身分制の色濃い江戸の社会がほとんど気にならないのは、若冲の心裡にだけ私の関心が向いているからなのか、それとも今の時代のどこかが、江戸の身分制にに通う何かを漂わせているからか。

 この若冲の、どこからどこまでがフィクションなのかわからない、伝記的な物語を胸にひそめおいて若冲の絵を見るとどう感じるだろうと、心が誘われる。つまり、澤田瞳子の若冲解釈に響き合うものを感じとることができるかどうか。そんな興味深さを感じた。

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