2019年1月17日木曜日

スティッキーにアクションを


 今度の日曜日に、わが団地の修繕積立金改正(値上げ)案説明会がある。昨年5月末に就任以来8カ月越しの「課題」を一つ片づけることになる。「課題」に通暁しているがそれを遂行する「手順」を関知しない専門家たちと、「課題」にも「手順」にも関心を持たない住民との間を、お役目で務めることになった私たち理事会が仲立ちする。


 専門家は理事たちに(修繕工事の用語や工法のことを)「勉強しましょう」という。理事たちはそういうものかと素直に受け入れようとする。私はそれに異を唱える。「勉強」しなくてもわかるように、ことばを言い換えて使ってください、と。専門家たちは「どうして?」と不思議そうな顔をする。素人の理事たちがわからないことは、住民はもっとわからないはず。「勉強しなければわからない」ような値上げ案は理解してもらえない、と。それを、専門家たちはもちろん、理事たちにも理解してもらわなければならない。

 専門委員が繰り出す「提案」に細かく質問を繰り出し、それをほぐして理事会に「値上げ趣意書」を提示する。そこまでに半年かけた。それを読んで副理事長は「小説みたい」と言ってくれた。なぜか。素人理事会が理解していく過程を丁寧にたどって、それを文章にしたからだ。だから従来の「値上げ提案」とはすっかり違った体裁になった。専門家の一人からは「こんな長い文章は読みたくない」と「お叱り」があったが、目次をつけ、結論はここにありますと明示して、簡単にクリアした。

 こういうのをスティッキーというのだと、昨日(1/16)の夕刊を読んで知った。国分功一郎の「思考のプリズム」という朝日新聞「文芸・批評」欄の記事。スティッキーとは「ネバネバしていること」と國分が付け加えている。國分がこの言葉をとりだした掲載記事の文脈は、また後日機会を見つけてとりあげるが、近年、グローバリゼーションの波によって規制緩和の名のもとに「中間団体」が解体されていった結果、「ハンナ・アーレントが見ていたよりもずっと純粋な大衆社会が現れ、…個人は相互にばらばらになり砂のようにサラサラと流される」。そして、「何らかの価値観や利害関心を共有し、それに基づいてむしろスティッキーに主張し続ける営みがなければ、民主主義は正常に機能しない」と展開している。

 そうそう、私も同じように実感していた。ただ私の関心は自分の所有する家屋の保全ということに向かわず、同じ団地の人たちの限られた方々と挨拶を交わす程度のお付き合いで気楽に過ごしていたから、わが脚下に「砂のようにサラサラと流される」事態が迫っているとは思いもしなかったのであった。理事長を務めるようになって、見方が変わった。そうして、「積立金の値上げ」という課題を背負わされたことによって専門委員会とのかかわりも生まれたし、専門家と素人との向き合い方にも目を向けざるを得なくなったという次第だ。

 國分は、中間団体においてスティッキーに取り組むことによって、かつて人々の帰属先がもっていた機能を取り戻せるかと思案する。帰属先とは、利害団地であり労働組合であり職業団体や企業や地域や学校などである。そこに、そこの文化の特定性を根づかせることが、民主主義回復の起点だとみている。つまり団地の自前管理をする理事会の「素人性」を堅持して、専門家の才能を組み込みながら、ただ単に資産の保全という視点ではなく、コミュニティをかたちづくること、それが現代の私たちが暮らしていく民主主義社会の骨格をなすという。ハンナ・アーレントは「労働」でも「仕事」でもない「活動/アクション」を人間活動の最良のものと規定した。スティッキーはなかなか気宇壮大なアクションだと言わねばならないだろう。

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