2019年1月5日土曜日

モラルの話


 J・M・クッツェー『モラルの話』(人文書院、2018年)を読む。7つの連作短編小説が、いずれも表題の問いを投げかける。


 う~んと唸るようなひとつが「犬」。通りかかる彼女に激しく吠え掛かる「猛犬」。勤めの往き帰りに、毎日二度、吠え掛かる。ジャーマン・シェパードかロットワイラーの大型犬。恐怖の色を浮かべる人に吠え掛かって支配欲を満足させているのか、あるいは、雄犬が雌人を見分けて支配欲を満たそうとしているのかと、彼女の想念は広まる。行き着いた先にアウグスティヌスが登場する。
 アウグスティヌスは、我々が堕落した生き物であるもっとも明らかな証拠は、みずからの身体の運動を制御できない事実にあると言っているそうだ。
 「とりわけ男は自分の一物の動きを制御する能力がない。一物はまるでそれ自身の意志に憑依されたように動く。あるいは遊離した意志に憑依されたように動くのかもしれない」
 彼女はじぶんの「屈辱的な恐怖の臭い」を出さないために自制力をもてるか、と自分を励ます。だが、今日も駄目だ。そこで彼女は勇をふるって「猛犬注意」と張り紙を出してうちの玄関の扉を叩いて、「なんとかしてくれ」と頼む。出てきた老夫婦は「いい番犬です」と言って取り合わない。
 以上のような話。
 「かんけい」によって生じていることを「身体制御」という実体に持ち込んで「堕落した生き物」と規定するアウグスティヌスを「いい番犬」と名づけているようにも読み取れる。

 もうひとつ、「物語」。不倫。娘を学校へ送り迎えする主婦が、週に一度、ときに二度、街中の男のアパートへ行って抱き合う。ところが彼女にとってそれは、欲しいと思っていたものが手に入った喜びに満ちている。「やましさは感じない」。夫との間は、それまで以上に親密になる。「ふたりのあいだのことにはまだ名前がない」。もちろん不倫という名も、別の「物語」を知るときに名づけられるが、いまは、そうとは言えない。男の固有名もあるが、彼女は男を思うとき男Xと呼ぶ。そう呼ぶことによって、彼女の胸中に物語をもって起ちあがってくることをやんわりと拒んでいるように見える。男Xであるがゆえに、彼女の欲望を解き放つ「関係」に限定しておくことができるようだ。
 「結婚した女が、意識的な決断をした結果、結婚した女であることを短時間やめて、ただの自分になり、それが終わればまた結婚した女に戻ることはできるだろうか? 結婚した女でいるって、どういうこと?」

 彼女の自問は、「かんけい」に「物語」をかぶせるのは誰なのかと、問いかけているようである。それは同時に、読んでいる私に答えを求めるように響いてくる。
 モラルというのは、限定的な規定をしている限り、個体にとっての刹那に吸引されて揮発してしまう。それが浮上するのは、限定が解かれて世の中の「物語」に位置づけられたときだ。刹那は、誰にとっても、心に刻まれたイメージとして、その個体のなかにとどまるであろうに。私たちは人は、イメージに満足しないのかもしれない。

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