2019年1月6日日曜日
「部族」化する世界?
ジェイミー・バートレット『操られる民主主義――デジタル・テクノロジーはいかにして社会を破壊するか』(草思社、2018年)が、世界を「部族」化しているととらえていて、私が抱懐している実感に近い。「部族」化というのは、同類の人びとが身を寄せ合うように集まってますます意気軒昂に、敵対する他者を攻撃するという社会構図を指す。
いまさら部族化したというのはどんなものだろう。じつは若いころから、ヒトというのは他人の意見に耳を貸さない習性を持っているのではないかと思わないでもなかったから、デジタル時代の特徴が、いっそうその習性を加速していったというのが妥当かもしれない。
「奴は敵だ、敵を殺せ。それが政治の本質である」と埴谷雄高が断じたことを思うと、案外、ヒトの本質が部族的。出自から問えば、個人よりも部族が先行するから、「部族」化というのは先祖回帰ともいえる。アメリカのトランプの言動も、剥き出しのエゴをウリにしている。それに応対する側もまた、覇権の何が悪いと居直っているようだから、時代そのものが先祖回帰にまっしぐらというところである。
本書は、行動経済学でノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンの「人の意思決定にうかがえる偏りの研究」を援用して、人の判断の順序に「システム1」と「システム2」とがあると、説く。順序というのは、私がそのように敷衍した。
「システム1」というのは「思考はすばやく直感的でしかも感情的」なことを指し、その上に「システム2」が「思考は遅く、検討を重ねて論理的でもある」ことが築かれる。そして今私たちの民主主義は「システム2の論理に基づいて運営されることを望み、理想とされる市民は活字人間」だとマクルーハンを引用して論議のベースを整える。ということは、「システム2」にまで文明化していた時代が逆行しているということか。
著者のジェイミー・バートレットは「インターネットはシステム1にきわめてよく似ている」とみてとる。インターネットは、スピーディにアクセスでき、個別化できる。「インターネットは感情的なメディア」ということを識者は理解しようとしないと、SNSディレクターのジャーナリストらしくコピーを張り付ける。デジタルのアルゴリズムが「感情的」だなんてと、誰もが思う。バートレットは、インターネットに接する人間が「感情的」である、と言いたいのだが、彼もまた、スピーディに「インターネットは感情的なメディア」と言ってしまったようだ。つまり、インターネットが人のありようを変えていっている、ということ。
インターネット時代の「速さ」に揺さぶられる「感情」が(そういう社会に)適応すべく、「情報過多とコネクティビティ全体を処理する手段」を手に入れようとする。それは「情報をふるいにかける」ことであり、「ノイズを選別する」ことを見する。つまり、直感的に情報を判断する力が強力に鍛えられる。ことばを変えて言えば、「確証バイアス」を上手に掬い取って自らの心象形勢を整えるのだ。説明的に言うと、すでに認められている枠組みにしたがって情報を理解し、同じ考えをもつものに囲まれ、これまでの世界観と相容れない情報は避けようとする傾向が強まる。これが「部族」化だ。不快な情報には耳も貸さない。
トランプの振る舞いを観ていると、上記のことがよく理解できる。部族主義と「システム1」思考は分裂と不協和をもたらし、理性と論争は膝を屈する、とバートレットは説く。そしてじつは他方で、敵の言動に注目し、それをフェイクと謗り、「われわれ」こそは正しく、「彼ら」は邪悪で腐敗していると非難する。つまり敵を叩けば、その分だけ我が正しく感じられるという、人がもって生まれた心的作用を十全に取り入れる。国会でも、かつては敵も味方も同居していたがゆえに、妥協が図られ、それが国民のコンセンサスの形成に一役買っていた。今や妥協は蒸発し、対立が激化。とどのつまり、多数が、数で押し切るようになった。国会審議なんて、茶番もいいところだ。議員は、中枢を除けば皆、陣笠というわけだ。
むろん彼ら国会議員は、そう思ってはいない。部族化が進む中で、対立する意見にもアクセスできる。敵対する意見は、どうみてもバカばかりにみえる。とすると、世間はバカばかりで、唯一まともなのは自分ひとりと、自己正当化が無限に繰り返されるというわけだ。
と、以上のようなことを中核にしてバートレットは民主主義の危機を読み取る。どうすればいいかも、いろいろとアイデアを出しているが、日本人は昔から、本音と建前として、正面から言葉で人と対することをしてこなかったではないか。いまさら「部族」化したというのも、片腹痛い。ひょっとすると、中国やロシアのような専制権力を好ましく受け入れる素地があるんじゃないか。ぼんやり描く私の世界には、もう十分愛想が尽きてきている。論理的じゃないが、ふと、思う。
そんなことを、思わせてくれた。ところで、昨日とりあげた作家、J・M・クッツェーは、どこかで「散文を書くことは、翌日も生きていく核心を得るための方法だったのかもしれない」と記している。とりとめもなく、今と昔を行き来している私は、「死ぬ核心を手に入れる方法を駆使しているのかもしれない」。
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