2019年1月2日水曜日

初想


 今日の早暁、夢うつつの中で「召命」ということばが浮かんだ。去年から思案していた、団地理事会の高齢化に伴う自助態勢をどうつくるか。結局行く着いたのは「理事長経験者らによる自助システムの構築」という案であった。だが「誰が応じてくれるかね」という疑念もあって、なんとなく落ち着きが悪かった。


 それがふと、「前年の理事会がそのまんま、新理事会の求めに応じてサポートに入る。旧理事会の窓口は正副理事長、新理事会の窓口は副理事長」とすると、ごく自然に、「継承性」を含めた、サポート態勢ができる。しかも、前年の理事会(という立案している私たちの現理事会)は、ここまでの間に、誰が何に長じていて、どなたのフットワークがよいとか悪いということが、掌を指すようにわかってきている。一年間の理事会での付き合いが、人の姿を象っている。

 しかも、「2年任期」ということを思案して、しかし、自分たちが終わってからそうするのは気が引けると、どこかで感じていた。これこそ、「まず、隗より始めよ」のかたちではないか。もちろん現役仕事で忙しい人たちもいる。あるいは(たぶん)そんなめんどくせえことはやりたくねえ、と反応する人も一人か二人いる。でもそれはそれでいいではないか。そうして、「サポート態勢」に入って一年経てば、そのなかから、(もう一年サポート態勢に入ってもいい)という人が(その方の得意技も併せて)何人かは残ろう。その積み重ねが、人為的に「理事長経験者らによる自助態勢」を構築しようとするより、自然な人と人との付き合いの中から生まれてきた、まさに「共同的な関係」の原基をもったかたちではないか。

 何か必要があって動くとき、私たちは(その理由)に思いを致す。だが理由というのは、「理屈」だ。あとでとってつけたような「理屈」で身が動くときの根柢には、(困ってるんじゃしょうがねえなあ)と感じて手を貸す事態をみている。その(しょうがねえなあ)という「感じ」が「共同性」だ。腰を上げる視線が「かんけい」の認知だ。そこに行きつかない限り、サポートは義理でありお付き合いであり、あくまでも無理強いされているような関係を抜け出せない。それでは自然の活動にならない。

 ボランティアというのも、そうするべくしてそうする、カントふうに言えば定言命令であることが望ましい。ボランティアが大学入試のときの点数に加算されたり、成績の単位になったりするのでは、仮言命令のまゝとなる。ボランティアを「策定」する方は、仮言命令がいつか提言命令になることを期待しているのかもしれないが、心の習慣になるのも、何十年とかかる。

 外から見ていると、「好きでやっているんでしょ」と言われるかもしれない。だがじつは、そうするべくしてそうするというのは、ある種の「召命」を受けて、そうしないではいられないからそうするのだ。「召命」というのは、神のお告げのように天啓を受けることだ。私たち日本人は絶対神をもたないから、天啓がひらめくというのが適当かもしれない。

 正月二日の明け方にみた夢を初夢というそうだが、それからすると、夢うつつの想念は初想。これも天啓がひらめいたものかもしれないと思った。

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