2019年1月20日日曜日
息の発見
五木寛之×玄侑宗久『息の発見』(平凡社、2008年)を図書館で手に取った。呼吸について語り合っている。玄侑宗久は禅宗の僧侶。その話が面白かった。
ひとつ。禅宗というのは浄土真宗や真言宗のようにピラミッド型になっていないということ。なかでも臨済宗は、ひとそれぞれが思いを自ら胚胎することを重視するため、ある種のドグマから自在であるという。そう言えば私が墓所にしてもいいかなと思っている(子どもたちの住まうところのちょうど中間点にある)お寺は臨済宗であった。宗派を問わないと言っていた。鈴木大拙を読んでみるのもいいかなという思いが、ちょっと頭をかすめた。
呼吸が意識と無意識の端境にある、無意識をコントロールしようとするのが禅の呼吸法だというのは、半ばその通りだと思う。だが、意識が無意識をコントロールするというベクトルの向き方が気にかかる。もちろん無意識はそれ自体として身体をコントロールしているから、そのベクトルがあれば双方向が成り立つという「理屈」もわかる。でもなあ、無意識を意識が感知することは、できているのだろうか。「コントロール」という能動的な方向性に私は抵抗を感じているのだ。あるいは、こうも言えようか。「コントロール」しているという思い込みに危うさを感じる、と。
ふたつ。本書は、呼吸法でも、これといった「正解」を想定しているわけではなく、その人の到達地点において、深さが違うということ。もちろん呼吸法の向かうところは宇宙の浄化する呼気を頂戴すると明快である。その深さが、五木寛之と玄侑宗久とでも違う。五木は「そこまでして極意に到達するよりは、俗に寄り添いたい」と自己規定するのも、いかにも「親鸞」を書いた著者らしく、好感を持ちながら読んだ。
みっつ。呼吸法と瞑想の関係については、これまで山歩きに関して私が感じ述べてきたこととそうはずれていない。だが、玄侑宗久の言で測ると、まだまだ入口のところにいるようだ。これは山歩きをつづける延長上に到達できることかどうかも、わからない。
今日は20日。私の団地の「積立金値上げ案の説明会」の日だ。理事長仕事のひとつの山場である。専門家たちと理事たちと住民の、それぞれの呼吸を測りながら、できるだけ自然に納得していきつくところを探る。でも「値上げ」には各家庭の懐具合も関係するから、そう容易に「自然に」とはいかない。こちらは無意識というよりは、プライバシーという見えない世界が向こうに控えている。果たしてうまく運ぶかどうか。
出欠の回答は約86%からあった。残りの14%は、どうしたのか。「説明会だから」回答するほどのことはないと、判断しているのかもしれない。あるいはすでに「承知するしかないことだから」回答をしなかったという方もいるかもしれない。あるいはまた、まったく関知していないという人も、いるに違いない。心配するのは、給水管・給湯管更新工事に入って、「拒絶する」方が居はしないかということだ。
これらも、団地全体を一つの身体とみれば、私からみると「無意識」の反応である。それを理事会という「意識」がコントロールするなどというのは、烏滸の沙汰。せめて、「感知」できないかと思っている。
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