2019年1月14日月曜日

身体を使うことが学びの入口

歩くということ

 「分速80メートル」というのが不動産の物件表示における基本速度だと知ったのは、昔住んでいたマンションを売りに出したときであった。時速にすると4.8km、なんとも中途半端な速さ。この業界の人たちは何を基準にこれを決めたのだろうと、そのときは不思議に思ったが、それっきりで忘れていた。ところが、レベッカ・ソルニット『ウォークス――歩くことの精神史』(左右社、2017年)を手に取って頁をめくっていたとき、「時速3マイル」という表記があって、気がついた。これが「分速80メートル」だと。そうか、欧米由来の人の歩行速度だったのだ。


 本書の四部構成の第一部が「思索の足取り」。面白い記述があった。

《……数カ月前にロサンゼルス・タイムスで見かけて頭に引っ掛かっていた広告……。CD-ROM版の百科事典の全面広告だった。謳い文句は「雨の日にも図書館まで歩かなければアクセスできなかった百科事典。お子様にはそんな苦労をさせたくない。クリック一つですべてをお約束します」。でも本当に教育になっていたのは雨の中を歩くことだったのではないだろうか。――少なくとも、感覚や想像力を育むという意味では。》

 わが意を得たりという思いであった。「教育」という視点で見た場合、効率よくモノゴトにアクセスして知りたいことをとりだすというのは、すでにそれらの知識が世界のどこにどう位置しているかをマッピングできている人には役立つことであろう。だが、知識に出くわし、それを「世界」のどこにどう位置付けるかなど、まったく見当もつかない子どもにとっては、「効率の良さ」は知識を「身につける」うえで好い事とは思えない。少なくとも「事典」を作成した人たちがたどったであろうようなご苦労のカケラにでも遭遇した方が、人類が形成してきた「知識」というものに対する敬意を培うことになろう。そんなことを思うからだ。 

 著者のソルニットは、ルソーやキェルケゴールの歩行に対する向き合い方をたどったのちに、こう述べる。

《……現象学者エドモンド・フッサールは1931年の論文において、方向とは自己の身体を世界との関係において理解する経験であり、「生き生きした現在と、有機体外部を取り囲む世界の構成からなる世界」であると述べている。……人間がいかに世界を経験するか、このことの考察の重点に感性や精神ではなく歩行という行為をおく点で、フッサールの企図は新しかった。》

 おおっ、これも私の日頃考え、書いていることと重なるではないか。ほんとかいと思う方は、2015年8月26日のこのブログを読んでみてほしい。あるいは、これまでの「わたし」と「せかい」とのかかわりについて書いてきていることを、みていただきたい。なあんだ私の考え方は、現象学だったのか。うん、お墨付きを得たような気もするが、これでなんだか得心しているのは、権威主義じゃないかという気もする。お前さんがフッサールのような「論」を展開したわけではあるまいと、心裡のどこかから声も聞こえる。そうだね、喜ぶよりも、80年ほども前にお前さんと同じようなことを言っていた哲学者がいたとすれば、とっくにお前さんの言っていることの先を現象学哲学者は考え進めて行っているはずだよね。つまり、もっと子細に踏み込んで言葉が交わされているに違いないのだから、そういう方面の研究を読み返してみてはどうかねと、やはり内心のどこかがつぶやいてはいる。

 でもさ、自分が哲学するのであって、哲学の歩みを勉強したいわけじゃないんだろ。だったら、現象学がどうだっていいじゃないか。学者がどこまで行っているかも、どうだっていいじゃないか。お前さんが、「自分の輪郭を描くことと世界をとらえることは同義だ」ということを、日々繰り返されることごとについてしっかりとらえることが大切よ。もし現象学の系譜に連なるってことがわかったからといって、お前さんが偉くなるわけでも何でもない。だいたい歩きながら考えるってことは、細かく分節化していくことよりも、連想的にイメージが飛ぶ方が多いって、お前さんも書いているではないか。学者じゃないんだ。ごく平凡な市井の市民がこう考えているってことが、文化的には重要なのだ。その地歩を、さらに進めて行ってごらんと、励まされたようなものだと考えるのが、一番真っ当なような気がするね。

 でもここで、山を歩くことと、家に籠ってよしなしごとを書き綴ることとがつながってきた。まあ、踏み迷わずに来ているってことかもしれない。良かったじゃないか、それだけでも。

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 すっかり忘れていた。こんなことを書いていたんだ、一年前に。一度、ここ11年間に書いてきたことを、歩くことの意味に絞って、まとめてみようかと思った。

 昨日から一泊で、「ささらほうさら」の合宿に行ってきた。とりあげた「テーマ」の一つに、「リスク管理」問題があった。この夏、都内の高校の終業式で十何名かの生徒が倒れた。暑さにやられのだろう。ところがそれを受けてとの教育庁が都立高校に「7月と9月の終業式や始業式を体育館で行うことはやめて、生徒はそれぞれの教室にいて放送で式をやりなさい」と指示したのだという。報告者はそれを「リスク管理」と名づけたが、私はとの教育庁の責任回避と思った。詳しいことは省くが、一堂に会するという「終業式」や「始業式」は、生徒たちの身のこなしが、ほかのクラスや学年を鏡にして明らかになる場である。そこにこそ教育的意味があると、あえて言えば、言える。それを教室の椅子に座って放送で済ませるなんて、壇上の校長の話が意味があると考えているようで、見当違いをしていると思われた。それが、この、一年前の一文で明らかにされている。

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