2019年1月18日金曜日

見守るコーチという仕事


 東洋経済オンライン(2019/1/17号)を見ていたら、プロ野球の「大谷翔平・元コーチ」・吉井理人が「教えない理由」というエッセーを寄せていた。これが面白い。
 「教えてはいけない理由」を五つ挙げている。まず、御覧じろ。


  教えてはいけない理由1:相手と自分の経験・常識・感覚がまったく違う
  教えてはいけない理由2:「上から力ずく」のコミュニケーションがモチベーションを奪う
  教えてはいけない理由3:「余計なひと言」が集中力を奪う
  教えてはいけない理由4:「悪いアドバイス」がパフォーマンスを低下させる
  教えてはいけない理由5:一方的な指導方針が、現場を混乱させる

 吉井はそれぞれに、自分の選手時代の経験的な事例やコーチとしての失敗をあげて、説得的だ。なにより、選手に対する見方が、一般的であってはならない点が、際立つ。一人一人の選手の内発的な動きに着目する。すると、上記の「見出し」のような文言がとりだされてくる。ではその逆ならばいいかというと、そうも言い切らない。選手によっては「これこれこうした方がいい」と指示的にコーチする方が効き目があり、それが必要な選手もいると、診たてる。だから具体的に書くのであれば、どの選手にどのようなコーチングができるかできたか、と書くほかない。

 最後の「理由5」の冒頭で、《言葉の感覚と似ているが、コーチが「自分ができるから選手もできる」と考えるのは誤っている。できない人にできる人が歩み寄らないと、つまり、指導する側が指導される側に歩み寄らないと、正しい指導はできない。》と書き始めているのが、私の気持ちに引っかかった。これだ、これだ。

 昨日も書いた、わが団地の「専門家」と「素人理事たち」と「住民」の間をつなぐ言葉をスティッキーに使っている私としては、「できる人ができない人に歩み寄る」媒介をしているつもりなのだ。いうまでもなく、「正しい指導」というセンスは、私にはない。吉井が「正しい」というのを、どういう意味で使っているのかはわからないが、たぶん、「当該選手にそのときに必要な指導」という意味で、(私は)受け止めている。それが「正しかった」かどうかは、結果的にうまく行ったかどうかをみて事後的に言えるわけで、「正しい指導」ということが一般的にあるわけではない。コーチングをする人は、逆に、「正しい指導」というのを離れて事態に向き合うことがなければ、「教えてはいけない」ことが、間違いなく、わからないと思う。

 ただ、新人でプロ野球に入ってきた選手にすると、自分の振る舞いを見守る人がいるということは、それ自体が刺激的だ。みられているという意識は、自らの裡に鏡を生み出す。みられているという意識は、自らの振る舞いの一つひとつの、根拠を問われているような思いをもたらす。それは、どうして? なぜ? という無意識の振る舞いまで対象としてみてとる内発性という「主体性」をかたちづくる。コーチがつく、見守るということは、なにもおしえなくともそれだけで、選手の内発性にさようするのである。

 吉井は、福岡ソフトバンクホークスの投手コーチをしていたときのことを「工藤公康氏、佐藤義則氏の翻訳者になった」と表現している。二人とも、現役時代は超一流のピッチャーである。

 《(この二人に、選手は)叱責されると萎縮し、一気にモチベーションが下がってしまうこともある。/しかも、アドバイスのレベルが選手のレベルを大きく超えてしまうこともしばしばあり、内容が理解できないため混乱する選手も中にはいた》

 ここで「翻訳者」として登場した吉井は、「何でも聞いてよ」と選手に呼び掛ける。つまり選手にとっては、元超一流ピッチャーに対する自分たちの関係を見守る存在になる。「翻訳者」という第三者的な立ち位置が、選手にとっては自らを鏡に映してみるような作用をもたらしたのではないか。「翻訳」は、それ自体が直に(選手に)語り掛けているのではない。元超一流選手の発したサインを、選手が受けとめ、「わからなければ何でも聞いてよ」という「翻訳者」にアクセスした、という構図。クッションとなる鏡は、選手の内発性を前提に成り立つ。むろん、吉井理人という、これまた一流の選手であったからこそ、「翻訳」ができ、コーチが務まる。

 わたしたちが「ものごと」を学ぶとか、教わるというとき、「ものごと」の送り手と受け手とはそれぞれが「主体」として対峙している。そうして、それぞれが「主体」であるとき、「教える―学ぶ」という関係は、直かには成立しないと言える。学校では成立しているではないか、とあなたはいうかもしれない。だが学校では、じつは、学ぶ「ものごと」は教科書であったり、知識や学問であったりと、抽象化された技能であり知識である。教師は、その「翻訳者」に過ぎない。それを忘れて、教師が直に教えていると思ったりすると、「学び」は発生しない。学校の授業が成立しないのは、教師の「誤解」もあるが、「主体」として内発的に向き合おうとしない生徒も、半分の責任を負っているといえるであろう。

 「ものごと」の奥義を究めるのは、昔から容易なことではない。ことば自体で伝授することでもなかった。師匠の姿を見て盗めといっていたことも、いまは段々と解析的にみて、伝えていくことができるようになった。そういう秘伝を伝授する極みに位置する人が、このように「翻訳」を口にするようになったことを、喜ばしいと私は受け止めている。

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