2019年1月3日木曜日
枯れてゆく
いま、日光湯元に来ている。息子家族と正月を過ごす。昨年は朝食後すぐに家を出発して、中禅寺湖畔の旧イタリア大使館辺りで孫たちを遊ばせた。湖畔のハーバーにぶら下がるつららに驚き、湖へ向かって投げる水切り石の飛び数が「とおちゃんすご~い」と言って、孫たちがはしゃぐのをみているだけで、いい人生であったと横に座るカミサンと言祝いだ。歌が浜でお昼をとって、午後は孫たちのスキー教室を覗いたりしたものだ。
ところが今年は、息子たちは先に出発。われわれ夫婦は洗濯をして、それから荷物を用意して、11時過ぎに出発。途中でお昼をゆっくりとって、ほぼチェックインの時刻に宿に着く。つまり何というか、孫や息子たちの意欲についていけなくなっている。いや、もともと息子の意欲について行こうというのではない。彼らが遊ぶのに付き合って、孫たちの様子を見る意欲が、去年はあった。今年は、その意欲が失せている。
もっと前は、孫たちをどう遊ばせるかを私が提案し、早発ちして引率するような意欲があった。たぶん、滅多に顔を合わせることのない孫たちを(息子夫婦の親付きで)支配したかったのかもしれない。それが廃れて、(たぶん)意欲が枯れた。その、枯れゆく成り行きを自然と感じている。身の衰えに、きちんと意欲の枯れゆくのが見合っている。喜ばしいと感じている自分を意識する。
日々、なにをするかに迷うことなく、起きて体を動かすのが習慣になっていて、不都合を感じない。これから先、身と意欲がどのように変容してゆくか、しっかり見ておくのが私の人生のように思える。
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