2019年1月16日水曜日
ジョージアも自然に帰れか
ギオルギ・シェンゲラヤ監督『葡萄畑に帰ろう』(ジョージア映画、2017年)を観た。「ジョージア映画界の最長老監督が描く」とチラシのコピーに謳う。この監督の『放浪の画家ピロスマニ』を2015年にみて、2015/12/10のこのブログでも取り上げた。
上映チラシのキャッチコピーで紹介されている「一杯の葡萄酒と乾草のベッド グルジアは私のキャンパス」という画家ピロスマニの言葉に象徴されるテーマを、《この映画は、「暮らしの中の絵画」が「芸術」として昇華するということはどういうことなのかを、その出立点からたどってみようとしている。》ととらえている。ここには、絵を描かないではいられないピロスマニの芸術的衝動と、その結果生み出された絵が国際的画壇の評価を得て商業主義の波に乗ったことによって、町の人々のピロスマニを見る目が変わり、彼の作品を売りに出すことをもっぱら考える、市場経済の浸透との相克と悲劇とを浮かび上がらせていた。
今度の映画は、逆の側から描く。政権の中枢にいて難民を(彼らの出身国に)送り返す仕事をする大臣が政権交代によって凋落し、家を追われ、実家に戻って「葡萄畑に帰ろう」という幸せな暮らしをつかむというコメディ。だが仕掛けがあまりにおとぎ話に過ぎて、コメディになっていない。しかも全体のトーンが、政治世界を揶揄いはするが、中枢に身を置いたことの痛みが主人公の内面に跳ね返ってこない。こんな映画が、コメディだとして描き出されることに、この監督のセンスの退廃を思う。ましてそれを、「故郷への愛を謳う人生賛歌」などと持ち上げる岩波映画のセンスのお粗末さ。
日本のサヨクは、もう政治への痛烈な批判をやめたのかね。私自身も日本ばかりか国際関係における政治にはすっかりあきれ果てて、近ごろは関心も遠ざかりつつあるから、サヨクの姿に文句をつける気はないのだが、公然とサヨクで売り出している岩波がこんなことでは、日本の文化までもがノスタルジーにふけって、退廃を極めていると言わねばならないなあ。
ジョージアという国が、私などのイメージからすると、すっかり辺境のように思っていた。ところが、政治課題は、ほとんど先進国と同じだ。役人たちの腐敗ぶりがどうなのかはわからないが、近頃話題の元日産の会長の振る舞いとか、アメリカの大統領の側近への処遇の仕方などとかわらないのかもしれない。つまり先進国が、合理的で機能的で、よけいな夾雑物を挟まない近代的関係を保っていると思っていたのこそ、私の「偏見」。実態は、古来の「縁故主義」が力をふるっている。
揶揄うというのは、表現としては批判に匹敵するアクションである。だが、その表現されたものを受け止める方が、揶揄いを真に受けて、「葡萄畑に帰ろう」などと受け止めては、コメディを制作した側の「意味深な」思いが伝わらない。いや、この監督がそういう「意味深な」思いを込めたかどうかはわからないが、もし込めていたとすると、どっちもどっちだと笑い飛ばしているようでないと、始末がつかない。つまり政治家たちも、故郷に帰ろうと口にする方も、どっちもどっち、と。
でもゲオルギ監督にそんな気はなかったように思う。世界はノスタルジーに浸るしかなくなってきているのだろうか。とすると、それこそ、レイ・カーツワイルのいうシンギュラリティではないか。もう引き返せない地点に来ている証のような気がする。
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