2019年1月25日金曜日
どこに着地点を見出すか
右肩の痛みが、日を追うごとに和らいでくる。右腕を吊って肩が思わぬ方向へ動かないように、医者は吊具を貸し出してきた。服の着脱をする右腕と右肩の動きを自分でやると、痛くて適わない。腕の重さがこんなにあるものかと、感じていた。それが今朝ほどは、自分で脱ぎ着できる。肩のある部位を押すと痛みがあるから、まだまだ完治には遠いが、着実によくなっているのはうれしい。
1/20の「積立金値上げ案説明会」に始末をつけて、2/3(日)に開かれる理事会は5月に行われる通常総会の「議案書」の準備をはじめなければならない。ことに今年は、4月末から5月初旬の十日間が連休になる。毎年「議案書」の印刷製本を頼んでいる業者から「出来れば2週間ほど原稿の納期を早めてもらえないか」と申し入れが来た。注文が殺到して、さばききれないというのだ。「御代代わり」を景気浮揚に結びつけようとする政権の意図が作用しているかどうかは、知らない。
「説明会」は本筋においては順調に運んだから、みなさん「よかった」と言って次へ移ろうという。法的にはもちろん、十年以上前の「管理組合規約改正」によって「専有部分の給水管改修工事は管理組合が行う」と定めているから、そもそも取り上げる必要すらない問題と、みなされていたのではあった。だが私は、「考えてみるべきこと」に「こだわり」を感じた。それを前回までに2回記した。一昨日の記事は、集合住宅に共に安心して平穏に暮らすのに、私的所有権の絶対性を考えている人は、どう対処しようとするのかと、「課題」を投げかけて締めくくった。
これは、私たち団地の管理組合は「法を根拠」にして管理組合の活動をしているのではなく、「生活上の必要」に基づいて行っていると確認するものであった。法をないがしろにしろというのではない。私たち自身の暮らしをベースに置くという自律宣言である。だから(私的所有権の絶対性という法的論題を掲げて)、合法的か、適法的かどうかを問題にするなら、まずその前に(当該の改修工事が)、実社会関係的に必要か不要かを論じ切ってから提起してほしいと問題提起者に問うものであった。たぶん管理組合運営においては、以上で一件落着と言っていい。
だからここから先の論題は、私の私的関心の落ち着きどころへ向かおうとするものだ。次のような疑問符が浮かんでいる。
(1)法は、私たちの生活上の土台に接着しているか。
(2)管理組合の自律的な自前管理が、なぜ必要なのか。
(3)管理組合が法を遵守するとは、どういうことか。
(1)は、今回の一人の管理組合員(aさん)の「専有部分の修繕はその所有者に任せよ」という合法性の問題提起が、私たちの暮らしに実際的かどうかを問うている。専有部分の私的所有権を保障する法が実際的ではない(実態がある)から、国土交通省も「ガイドライン」を出して、専有部分の管理組合による改修を「規約」ガイドラインに盛り込んだに違いない。問題は(そういう実態を知らないわけではない)aさんが「私的所有権の絶対性」を掲げて改修工事を非難するのは、法の権利保障が実生活を貫くべきだと彼が信じているからであろう。だが、法はそれほどに、実生活の土台に寄り添うように位置しているものなのだろうか。
この点で、私のとらえる法とaさんのとらえる法とは180度食い違っている。aさんは「管理組合が専有部分の改修工事を行うこと自体が私的所有権の侵害」、つまり法を犯しているとみている。だが私は、「法は自在なありようのリミットを示すものであるから、実際生活の処し方で争いになったときには参照されるべきことではあるが、法を根拠に実際生活上の諸事を処理することはできない」と考えている。「自在なありよう」というのは、社会生活上のさまざまな事柄は慣習や社会規範に基づいて処理されていくものであって、直ちに法的な争いに持ち込む以前に、まだやりとりするべきことがあるというものだ。その「やりとりするべきこと」というのが、実際的な私たちの暮らしに何がどう必要なのか不要なのかという「やりとり」である。その「やりとり」があるにもかかわらず、強引に(例えば、管理組合という中間集団において)決められ執行されようとするとき、はじめて法に訴え、リミットにおける争いを闘わせることになるのではないだろうか。法は、慣習や社会規範の外縁に位置して、ちょうどテニスコートの白線のように、イン/アウトを見極めるときに作動するものである。この私の法感覚は、間違えているであろうか。
aさんは、「私的所有権を侵害している」と、まず法の規定から「改修工事」を非難している。ではどうしたらいいのか、どうしたいのかについては、提起しない。もちろん提起しないで反対する「権利」はある。だが、それが理を尽くした「やりとり」に耳を貸さないものであるなら、白眼視されても仕方がないものといえる。
それは(2)の自前の管理につながっている。団地の管理組合が自前管理をする(必要がある)のは、(団地の管理に関する)コートの内側におけるさまざまな事柄には、慣習や社会規範が働かねばならないからだ。管理組合という中間(社会)集団が必要なのは、個人がただ自由気ままに振る舞うことで社会がほどよく運営されていくわけではないからだ。それを市民の自律を前提とするイギリス流の個人主義は「市民の権利と責任」と表現した。その「市民」たちがじつは、キリスト教的な、かつ伝統的な風土に象られた社会規範に、しっかりと共通の足場を置いていたのであった。
実際の日本でも、長く島国とか井の中の何とかといわれるような共同感覚に包まれた社会規範に育まれて、大きな違和感を感じずに過ごしてきた。家族や職場や学校といった個人の帰属集団を中間集団として介在させて、「やりとり」は行われてきたのであった。それが市場社会になるにつれて少しずつ変容しては来たが、「お上」が仕切ってくれるという(国家・社会への依存)感覚は、遅くまで残った。それが、あたかも法が規範にとって代わるような「絶対性」を持っていると思わせたのであろう。
中間集団の影が薄くなり、たくさんの個人が皆ばらばらに自由を謳歌して、国家・社会にまとめられるようになるという、おそらく世界でもまれな高度消費社会に、私たちはおかれている。だが管理組合という中間集団が働かなければ、社会規範の作用はいつもリミット上の合法/非合法の争いばかりになる。そう言えば、政治家たちの国会論議を聞いていると、いつもリミット線上の争いばかり。不法を指摘されると、「書き換えたり」「返金したり」して、コトが済むような気配すらある。こんなことをしていたら日本の社会は、極道者ばかりが往々するようになると私は、心配している。
(3)はしたがって、管理組合の積み重ねてきた「規範の蓄積」を「慣習」として定着させる起点を示している。つまり「法を順守する」というのは、管理組合の諸事を執行する権限を持つ理事会は、「決定に基づいて」執行することを義務付けられている。理事会の運営が自律的であり、自前の管理をすすめるものとするとき、執行者が持つ権限が恣意的に暴走することを(予測して)防止しようとする定めである。(3)はつまり、国法を遵守せよというよりも、ひとつひとつの執行過程を理事会の「決定」に基づいて行えという、規範的定めといったほうが良い。
この最後の「規範的定め」が、居住者の現役仕事にかかわって、ずいぶんと大きな広がりを持つ。司法書士や弁護士、会計士や税理士をしていた方々は、法曹界のコンプライアンスをイメージして「法の遵守」を考えている。企業の経営中枢に身を置いた人たちは、国法ばかりか取締役会や株主総会の決議を経ているかどうかを勘案する。日常の暮らしを営んできた人たちは、非常識な振る舞いを思い描いている。その抱懐するイメージの違いをつないで、ことばを共有していくこと、それが理事会の仕事である。それが果たせてこそ、自前管理の理事会が健全に機能していると言えるのではないか。
この辺りに(今回論議の)着地点がある。そんなことを考えている。
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