2019年1月8日火曜日

ボーっと生きないって、こういうことなの?


 「心動かされたい。でも、予測できないものには手を出したくない――。そんな空気が今、エンタメ・カルチャーを等しく取り巻いているように見える」と、朝日新聞(1/8)の「文化・文芸」欄が「ココロの行方」として紹介している。


 「5回泣ける」などと謳っている映画の広告は、コピーだと思っていた。ところが、「感動の保証を求める声に、応えるようなツールも現れた」とインターネットのいくつかのアプリをあげている。「感動の保証を求める」って、なんだよ、それ。ここでいう保証は、コストパフォーマンスのことらしい。つまり、支払った費用に見合う「感動」を得られるって保証してよ、ってことか。自分の「感動」まで消費者感覚の商品交換てことのようだ。呆れるね。

 制作者と同じ世界を生きてきたわけじゃないじゃないか。何に感動し、どの情景に涙するかは、自身の体験を通じて培われた「感性」が土台になっている。それを商品交換のように考えるってことは、自身の「感動」や「涙」を制作者の意図する世界に合わせるってことなのかい?

 そう思っていたら、記事の後半で、《一方、実際にお金を払うライブや演劇で「失敗したくない」という若者に驚いた》と記者が書いている。おいおい、自分の口に合わない演劇だって、ときにはあるじゃないか。本にしても映画にしても、読んだり観ている自分の感性とぶつかる「違和感」が、読んだり見たりする醍醐味ってものじゃないか。制作者の世界とずれたり共感したりしてこそ、自分の世界の輪郭を描きとることにつながるではないか。

 記事はつづけてこう記す。「失敗したくないから」、

《事前にネットで口コミなどを調べ、フェスに行くときは、あまり知らない曲を予習するそうです》
《『正しい見方』が出来たか、答え合わせをしたがる人が多い》

 と。それじゃあ、「感性」がどんどん平準化してしまうじゃないか。そうするとますます、「じぶん」が分からなくなるんじゃないの? 「わたし」って誰? 「わたしの感性」は、これでいいの? って、誰が保証してくれるんだよ。「わたし」くらい私が信じてやれよと、私は思う。

 そうしたら、記事には、こんな反撃が用意されていた。

《(女子学生たちは)文書が長いものは読まない。写真などで、パッと感性に訴えないとダメ》

 なのだそうだ。いやはや参ったね。およびじゃないのよ、あんたは! って。
 どうしてこうなっちゃったんだろう? 物質的に豊かなIT時代のもたらした人間の姿ってことのようだ。でもこの先、この傾向はますます加速するんでしょう? ITに負けるとか勝つとかいう次元じゃないですよね。チコちゃんならぬAIちゃんに、導かれながら「感性」や「真善美」を身に着けるようになる時代が来ているのかもしれない。ボーっと生きないって、こういうことなの?

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