2019年4月29日月曜日

球史に一勝を刻む


  昨日(4/28)、先日予定し(雨模様に)延期していた大山・三峰山へ行ってきた。休日に山へ行くことは、仕事現役の方々の行楽を妨げることになると考え、長らく控えてきた。だが雨には勝てない。ところが電車に乗ってみると、座席は空いている。連休のせいか。新宿の乗り換えも雑踏というほどでない。小田急線の快速急行も座っていけた。本厚木につきバスに乗ったが、19日のウィークデーに同じバスの乗ったときは立っている人もいたのに、全員腰掛けている。何だか混むという私の思い込みがはぐらかされたようであった。埼京線の電車からくっきりと、雪のついた富士山が見える。昨日朝の大雨が白い化粧を施したようだ。その富士山宝永火口の右下方に、かたちのいい三角錐の山が黒っぽく姿を現している。大山だ。今日上る三峰山は、その東に位置している。

2019年4月27日土曜日

言語以前と言語以後の端境(3)「わたし」の意識と存在のゼロ・ポイント


 さて本題に戻す。言語になる以前の茫漠たる混沌の海が、私の「おもい」の原点にある。外部からそこに突き刺さり、そこから出でてこそ「わたしのことば」として、私の輪郭をかたちづくると思える。だから、その混沌の海を「言語以前」として「世界」から切り離して捨ててしまう考え方に、未だにこだわっているのだ。

2019年4月26日金曜日

不順な天候、年寄りがごめん


 昨日も今日も、雨が降り続いている。いつも晴天を良い天気と呼ぶのは、サラリーマン生活をしているとか山歩きを趣味とするとか傾きもあろうが、連休ともなると、遊びに行くのに、やはり晴天を好ましく思うのではなかろうか。そして、この十連休は晴天続きといわれていたのに、ここに来て、だいぶ怪しくなってきている。

2019年4月25日木曜日

言語以前と言語以後の端境(2)神からの自律


 「世界は言語だよ」というのは、「言語にならないことは存在しない」という文脈で語られたのだったか。つまり、イメージも、混沌の海も、わからない何かがある/ないという表現も、そのような言語/言葉になることによって、「せかい」として存在しはじめる。空や無もまた、そのようにしてつくりだされてきた。

2019年4月24日水曜日

天気晴朗だったのに


 このところ晴朗な天気が、つづいてきた。夏日になるとTVは大騒ぎしている。季節の進行が早くなっている。だが南の風とは言え、風が当たると、やはりまだ春だと思わせる涼やかさが吹き付けて、日向を歩いていても気持ちがいい。並木のハナミズキが真っ盛り。白と薄紅色の花をつけて、街路を彩っている。図書館によって雑誌に目を通し、さらに足を延ばして買い物をして2時間ほどを歩いた。

2019年4月22日月曜日

言語以前と言語以後の端境


 もう40年以上も前になる。二人の友人とやり取りをしていて、「世界は言語だよ」と言われて絶句したことがあった。一人はフランスの現代哲学に通暁している方、もう一人は仏教に通じている方。そのとき何が話題になってそういう言葉が飛び出してきたのか、すっかり忘れているが、当時の私の経験的な「おもい」からすると、言語になる以前の茫漠たる混沌の海が私の胸中にあると感じていた。

2019年4月21日日曜日

伝えるということ


 団地理事会の役割の一番大きいことは、やはり修繕である。2022年に竣工する予定で、給水管・給湯管の更新工事のプランニングに取りかかる。そのはじまりのところで、次の年度の理事会に引き継ぐ。修繕専門委員長は、修繕専門委員会で型どおり引き継ぐというのに懸念を覚えたのであろう。主たるメンバーで集まって、進展の現況と今後の進め方の立案していることを文書にし、齟齬がないように説明し、やりとりをした。約2時間。それが昨日のこと。

2019年4月20日土曜日

トレーニング山行の教訓――総合力


 3月になって「トレーニング山行」を行っている。念頭に置いているのは8月の北アルプス表銀座縦走5日間。先日の山行記録にも記したが、トレーニングと言っても「鍛錬」ではない。後期高齢者という、この歳になって鍛えて、今より強くすることは望めない。筋肉もそう、呼吸器もそう、循環器も消化器も現状をそこそこ機能させるのが精一杯。だから、「現状」を意識する機会としてトレーニングをしている。

2019年4月19日金曜日

生きていくということ


 昨日(4/18)の朝日新聞社会面の記事は、切ないものであった。「気鋭の研究者 努力の果てに」と見出しを付けた7段抜き。将来を嘱望された日本思想史の研究者が、経済的な苦境から抜け出そうと結婚し、しかしそれが破たんして、命を絶ったというもの。2年前、43歳であったという。

2019年4月18日木曜日

奥深いのに人気の山、丹沢三峰縦走路


 一昨日(4/16)から一泊二日で丹沢山の縦横路を歩いてきた。この夏の表銀座縦走のトレーイング山行と名づけている。何しろいずれも後期高齢者に突入し間もなく喜寿を迎えようという年寄りが意欲を燃やす。だが意欲だけでは適わぬのが年を取り、わが身の始末が思うようにならないこと。トレーニングと名づけはしたが、若いころのように「鍛える」というのではない。わが身の現在をできるだけきちんとつかんで、身に合わせて歩き方や休み方、食べ方や飲み方を、そのときどきの気分に任せないようにしようという心がけの実地チェックである。

2019年4月15日月曜日

賑わいのサクラソウ公園


  昨日(4/14)、珍しいことに、田島ヶ原のサクラソウ公園へ行った。珍しいというのは、今日からサクラソウ祭りが行われるからだ。ふだんは、こういうお祭りの日にサクラソウを見に行ったりはしない。しかしちょうど、遠方からの客人があった。そこへ昨年から東京に来て働いている姪っ子が合流する。カミサンがふだん自分のフィールドにしているサクラソウ公園を案内しようと思っても不思議ではない。たまたま祭りが重なっただけではあった。

2019年4月13日土曜日

間合い、距離、待つということ


 朝ドラを観ていて気づいたこと。小さな娘が、同級生の家の開墾に手を貸してやってくれと爺ちゃんに頼む。爺ちゃんはムズカシイ顔をして応えない。翌朝の場面。爺ちゃんが一度その場所を見に行ってみようといい、すぐに場面が切り替わる。次の場面。同級生の家で手を貸すと話を切り出し、親が余計なことをと反発するやりとり。どこの視点から爺ちゃんが考えているかが説得的に展開する。そして次の場面。開墾に取りかかる人たちの姿。それらがほんの15分ほどの一話に盛り込まれている。

2019年4月12日金曜日

誤らない人は、何を護っているのか?


 年度が変わって、わが団地のある契約の「重要事項説明」が行われた。国土交通省の住宅管理会社に対する「指導」は、子細にわたる。しかも、理事会に説明するだけでなく、管理組合の全戸に「重要事項説明書」を配布しなくてはならない。配布の許可を求めてきたのを断る理由はない。今年は、6月に行われる住宅管理会社との契約額が値上がりすることも、「説明」に含まれている。その案件の承認は5月下旬の定例総会。議案書はすでに印刷所へ入稿済み。

 4月の理事会のときに管理会社の職員3人がやってきて、「説明」する。私は、例年行われていることだからと、配布された文書を見ないままにしていた。だが、総会議案書の最終校正になって、議題の「契約承認の件」に記載した金額と全戸配布の金額が違っていたりすると大事だと気になって、配布文書を見直した。ところが、配布文書は契約の「月額」を表示している。だが、総会議案書は「年額」で表示する。ということもあって、電卓を叩いて計算したから、単純なミスがわかった。住宅管理会社の提示した金額は、「窓口業務費」と「収納会計費」の項目を取り違えている。土曜日のことだ。

2019年4月10日水曜日

不作為の傾き


 図書館の雑誌に掲載されたAI関連の記事だったのか、TVの報道番組だったのか、気になったこと。これが、どんな雑誌のだれが書いた記事か、どのTV局の番組だったか、すっかり忘れているのだが、ま、本筋に直接関係するわけではないので、このまま話をすすめる。

 報道内容は、アメリカのある町で警察官の動きを効率化するためにAIを活用している、というもの。その町の居住区ごとに、そこに住む居住者の人種、年齢層、家庭、職業、収入、商店の種類、外灯の有無、交通機関の種類や頻度、などなどベーシックなビッグ・データにかぶせて、天候や気温、湿度などの自然条件の推移、逮捕歴、職務質問を受けた回数、犯罪の発生などなど、治安にかかわる諸々のデータを入力して「犯罪の発生予測」をAIにさせると、(今日のこの時間帯には)町のどこで犯罪が発生する可能性があるかを地図上に表示する。それに合わせてパトカーや警察間の配置を重点的に行うようにしたら、犯罪の発生が20%だか30%抑えられるようになった、というもの。つまり警察が、発生した犯罪の捜査や取り締まりをするのではなく、予防を行う態勢へ切り替わっていくという最新のアーキテクチャーを紹介していた。

2019年4月9日火曜日

死者の目線を仮構する


 今日、4月9日は弟Jの命日。5年前(2014年)に亡くなった。もし存命であれば69歳。Jよりちょうど10年後に生まれた方が5月から天皇になるから、来年から、Jの生誕の日は天皇誕生日になり、祝日となる。なによそれって、と彼は彼岸で苦笑いしているに違いない。

2019年4月8日月曜日

啓示か予感か単なるこじつけか


 ふと、思い出した。今日4月8日はお釈迦さんの誕生日、花まつり。子どものころ、近くのお大師堂へいって、甘茶をごちそうになった。キリストの生誕祭というような、知意識的な行事ではない。日常の風景のなかに溶け込んだ、緑の山の中腹にあったお大師堂の白壁が思い浮かぶ。お釈迦さんが何をどうなさった方かも知らず、ただあるがままの「われ」を包み込むような気配を、好ましく感じていたように、振り返って思う。いま思うと、あれが私の宗教的体験のひとつなのかもしれない。安心してわが身を委ねる心地。それは宗教的体験の原型と呼ぶようなことだったかもしれない。

気息をとらえる目撃録


 朝井まかて『落陽』(祥伝社、2016年)を読む。図書館の書架に合ったものを、ふと手に取った。ちらちらとみると、明治末から大正期のことを書いているらしい。借りてきた。私の父母がいずれも明治末の生まれ。父は亡くなって34年、母は5年になる。母が亡くなってのちに、どんな時代を生きたのだろうかと関心を傾けはしたが、せいぜい大正デモクラシーとか大正教養主義といった概念的なことだけ、母の書き遺したものや生前の話などと噛みあうところを切りとって理解したような、半端な気分が、私の裡側のどこかに残っていた。それがこの作品を通して、見事に描き出されていると感じた。

2019年4月6日土曜日

権威に拠らない――その意気やよし


 イチローが国民栄誉賞の受賞を断ったと報道があった。これで三度目だ。メディアは、なぜ受けないのだろうといくぶん不審な面持ちのようだが、私はイチローの一貫性を感じた。つい先月の3/23のこの欄にも書いたが、イチローの「人望がないという自己認識」こそ、「じぶん」を「せかい」に位置づけるセンスの起点である。国民栄誉賞を受けないというのも、その延長上に位置する当然の答えだと、私は受け止めている。

2019年4月5日金曜日

「自他の識別―排除」は生物の宿命


 昨日(4/4)の朝日新聞に「キクイモの苗 自他を識別」という記事があった。東大農学部の助教が解明したもの。キクイモを栽培すると、同じ親イモから育てた苗は、違う親イモから育てた苗を「他人」と認知して、養分をめぐる争いで労力を費やすが、「自分」ならば喧嘩をせず蓄えに回す(=根っこのイモを太らせる)――というのだ。つまり、キクイモは「自他」の識別をして、他者を排除しようと力を尽くすということを解明した、という。

 面白い。

2019年4月4日木曜日

季節の微細な変化が読み取れる里山


 昨日(4/3)、北筑波の愛宕山―難台山―吾国山を縦走した。常磐線の岩間駅から歩き始め、水戸線の福原駅に到着するロングコース。じつは昨年の4/2に(2週間後の)下見に歩いている。昨年の本番は、雨のため中止。そこで今年は、満開であったカタクリをお見せしようと実施日を早めたわけ。

2019年4月2日火曜日

大行事が終わって、着陸態勢へ


 先月末の30日(土)と31日(日)に、団地の2018年度理事会の大きな行事が終わった。団地駐車場の抽選会。毎年1回、3月末の日曜日におこなわれている。13人の理事が役割を分担して、受け付け、抽選、駐車場所の選定、それのパソコン入力、「駐車場利用契約書」の受領、その後に少し時間をおいて、契約車輛の一斉移動を行う。30日(土)は、理事が行うリハーサル。このときまでに行う準備も、事前審査などいろいろとあるが、通常担当者が住宅総合会社が派遣している事務職員とともに済ませている。.「契約書類」もじつは事前にあらかた整えておいて、抽選前に渡し、抽選後に、駐車場所を書き込んで、捺印して提出するだけにしてある。

2019年4月1日月曜日

無明


 井筒俊彦の『意識の形而上学』(中公文庫、2001年。初出1993年)を読んでいて「無明」について次のように触れているところがあって、想い出すことがあった。

《一見、「真如」とは正反対の、いわゆる「無明(むみょう)」(=妄念)的事態も、存在論的には「真如」そのものにほかならないのだ。》

 もう5、6年前になる。私がコーディネートしているseminarで、(そのころ)僧侶の修業をしていた女の方、Kさんに講師を務めていただいた。義母がなくなり、その葬儀の折に触れた浄土真宗の僧侶の話を聞いて弟子入りし、仏教修業をはじめたというその方が講師となって、「私の仏道修行」というお題でお話ししてもらった。その席上のやりとりが般若心経にいいおよび、私が「わけのわからない混沌の世界」という意味合いで「無明」という言葉を遣ったら、「それは(意味合いが)違う」と返され、では、どういう意味合い? と訊ねたら、どういったものか言いよどんで、そのままになってしまったことがあった。仏教世界ではどういう使い方をしているのだろうと、ずうっと気になっていた。それに対する回答を井筒のことばに見つけたと思った。