2019年4月5日金曜日
「自他の識別―排除」は生物の宿命
昨日(4/4)の朝日新聞に「キクイモの苗 自他を識別」という記事があった。東大農学部の助教が解明したもの。キクイモを栽培すると、同じ親イモから育てた苗は、違う親イモから育てた苗を「他人」と認知して、養分をめぐる争いで労力を費やすが、「自分」ならば喧嘩をせず蓄えに回す(=根っこのイモを太らせる)――というのだ。つまり、キクイモは「自他」の識別をして、他者を排除しようと力を尽くすということを解明した、という。
面白い。
「苗が自他をどう識別しているのか不明だが、並べ方を変えるだけで増収につながるなら……」と、増収という利益につながるかどうかに発見者の関心が向くのは、農学の専門家だから仕方がないかもしれない。だが、そんなことよりも私は、「自他の識別―排除」が生物の宿命的なことなのだと、受け止めた。「いじめ」などについても、それを絶滅するようなことを文科省が始動目標に盛り込んだりしているが、「自他の識別―排除」が生物的宿命だとしたら、キクイモと人間では、その識別の仕方や排除のありようは異なるかもしれないが、絶滅するというよりも、生存に不可欠の要素であると認知して、他人との生存においてどうその本性を馴致し、社会関係の組み込んで飼いならしていくかを考えなければならないのではないかと思う。
キクイモにおいては「土の養分を奪うため、根を互いに増やす競争が起こる」そうだ。人もむろん、その生存のために他者との競争をするが、同時に、他者と手を結んで団体を結成もする。そのようにして「自分:わが(親イモの)領域」を拡大し、氏族となし部族となし、クニをつくりもする。それが人間の文化である。そこにおける振舞いが、キクイモのように単純な力の競争だけでなくなるのは、想像に難くない。集団を拡大するにつれ、暴力を抑え、序列を固定化し、儀式をかたちづくり、規範秩序を構成する方向へと歩んできた。むろん、暴力が克服されたわけではない。競争がなくなったわけでもない。形を変え、あるいはいくぶん剥き出しに噴出することが抑制されるようになっただけかもしれない。その何万年の結末が、今現在の私たちである。
そう考えると、どうして今の時代に、キクイモにも共有される「自他の識別―排除」という本源的本性が、人間集団の社会に、あいかわらず輩出して来るのかを考えなければならない。ヒトは「状況」に適応することを通じて、文化的な進化を遂げてきた。その時代時代に生きる人にとっては、適応すること自体が「自然」であったに違いない。つまり、人為的につくられた社会に適応するヒトの自然が「人間らしさ」だとすると、心裡の奥深くに隠された本性は人の無意識として、日々の振る舞いのなかに息づいていると言える。それをそれとして探り当てることなくして、私たちは、頭で理解できた「にんげん」を担いでいても、いささかも暴力や差別や排除の振る舞いから自由にはなれない、と思う。
人の振る舞いを私は、自然に任せよと考えてきた。だがそうも言っていられない。私たちの振る舞いの傾き自体が、無意識に動機づけられた「本性」だとしたら、今一度「わたし」の輪郭を描き出し、「わたしの無意識」を掘り出すモメントを認知の枠組みに組み込まなければならない。
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