2019年4月13日土曜日
間合い、距離、待つということ
朝ドラを観ていて気づいたこと。小さな娘が、同級生の家の開墾に手を貸してやってくれと爺ちゃんに頼む。爺ちゃんはムズカシイ顔をして応えない。翌朝の場面。爺ちゃんが一度その場所を見に行ってみようといい、すぐに場面が切り替わる。次の場面。同級生の家で手を貸すと話を切り出し、親が余計なことをと反発するやりとり。どこの視点から爺ちゃんが考えているかが説得的に展開する。そして次の場面。開墾に取りかかる人たちの姿。それらがほんの15分ほどの一話に盛り込まれている。
テンポよく、ストーリーは展開していく。そうか、私たちもすっかり今風になっている。現実過程としてみると、場面が展開するごとに挟まっている時間、沈黙の応答、それが意味する問題の複雑さ、そこに堆積している人それぞれの歩んできた(観ているものにもわからない)人生がある。それらのことごとくが、「かんけい」の深さを表現している。だが私たちは、テンポよく、ストーリーを追う。たぶん、その端折りがなければ、連ドラは観てもらえないであろう。
だが、このスピード感が現実感覚になったとしたらどうだろうか。いや実際に、人と人とのやりとりは速度が増している。高齢者が電話をよく使いメールを嫌がるというが、私はメールを好む。相手の状況にかかわりなくこちらの意思を伝え、相手の状況が許せば返事が来るし、応答がないのは、それが返事だと思えるからだ。だが中には「開封確認の要求」というのをしてくる人がいる。なんだか、急かされるようで不快になる。沈黙しているとラジオの放送のように「事故」とみなされるとでも考えているのかもしれない。ところがLINEというのを利用していると、「既読」という表示が出る。見たか見ないかも機械的に伝えてくれる。つまり人々が、応答しないとか、沈黙しているとか、「考え中」というのを我慢できなくなっているのだね。展開の速さが、ただ単にドラマの中のお話しではなく、私たちの日常のスタンダードになり、それが身体化して気性にまで転化しているといえそうだ。
そうなったとき、間合いとか、距離を持つとか、応答を待つといった振る舞いが、「かんけい」を表す意味合いから「削除」されるのではないか。彼の人自身の抱えた状況に簡単にほぐれないわだかまりが残されているとか、私との関係で即答できない何かがあるとか、あるいは人の歩いてきた径庭とか、世の中の気配に、ひと口に切り分けられない錯雑する事情が横たわっているという「かんけい」を読み取ることが、どんどん省略され、大事かどうかわからないことが捨象され、一筋の物語に集約されていくような、流れを感じる。それは、人間が一筋にまとめられていくことではないのか。
AIには、たぶん、言葉にならない沈黙とか、迷いとか、今すぐに判断しにくい事情とか、なぜ今すぐにその判断をしなければならないのかという逡巡などを組み込んで「待つ」という、「間合い」がとれない。1円でも足りないと「領収」の応答が出てこないように、寸分違わず「間尺」に合わなかければ受け付けないという世の中が、すでに出来上がってしまったのか。
宮本常一の「忘れられて日本人」にあった「村の合意の仕方」が思い浮かぶ。部落の代表が「寄合い」をして全員一致でなるまで、集まりをもつ。そこへ顔を出すために、伝馬船を漕いで海を渡ってやってくる人もいる。でも、「合意」が得られるまで「寄合い」は繰り返される。そのとき「かんけい」は、合意に至るまでの「困難」が何であるかを、ことばにすることなく、あるいは言葉にして表してもその裏側にある事情を、慮る。互いにそのようにして、それぞれの(部落の)持つ結界を踏み越えることなく、思いやることによって、長年の蓄積が何であったかという時間とその流れを共有する場を持つ。遠い昔のことのように思うが、その向き合い方の中に、人生の多様性とか人の才覚や才能、感覚や人柄の厚みや幅、つまり、わからないことがいっぱいあることを感じとっていったのではなかったか。
「待つ」ということの大切さを、痛感する。
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