2019年4月6日土曜日
権威に拠らない――その意気やよし
イチローが国民栄誉賞の受賞を断ったと報道があった。これで三度目だ。メディアは、なぜ受けないのだろうといくぶん不審な面持ちのようだが、私はイチローの一貫性を感じた。つい先月の3/23のこの欄にも書いたが、イチローの「人望がないという自己認識」こそ、「じぶん」を「せかい」に位置づけるセンスの起点である。国民栄誉賞を受けないというのも、その延長上に位置する当然の答えだと、私は受け止めている。
つまりイチローは、権威に拠らない「じぶん」をみつめ、「せかい」を描きとり、人生という旅をつづけたいのだ(と私は思っている)。無冠のセンスだ。どこかの文学者のように、文化勲章は受け取れないが、ノーベル賞は嬉々として受賞するというのとは、センスというか、発想の起点が違う。
いくぶん不審というメディアの面持ちは、イチロー自身の自ら築いた赫赫たる金字塔に敬意を表しているから、あまり表に現れない。だがイチロー自身は、自らの築いた「戦績」も金字塔と思っているかどうか、わからない。つまり世間に謂う金字塔には、当人にとっては、やはり外からかぶせられた「権威」のにおいが漂うからだ。金字塔というよりも、自らの足跡を記すものではあるが、それに依りかかってこれからの人生を送ろうなどという「じぶん」を認めていない。その気配が、いかにも「人望」さえも関知しない彼の内面を表現している。その意気やよし、と私は思う。
イチローが今後どのような生き方をするか、とても興味がある。まだ45歳。人生半ばである。まるで自分の輪郭を描き出すようにして「世界」を観ているインタビューを思い出すにつけ、哲人イチローがわが身の裡に誕生しているのを感じてうれしい。
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