2019年4月27日土曜日

言語以前と言語以後の端境(3)「わたし」の意識と存在のゼロ・ポイント


 さて本題に戻す。言語になる以前の茫漠たる混沌の海が、私の「おもい」の原点にある。外部からそこに突き刺さり、そこから出でてこそ「わたしのことば」として、私の輪郭をかたちづくると思える。だから、その混沌の海を「言語以前」として「世界」から切り離して捨ててしまう考え方に、未だにこだわっているのだ。


 こうした言葉に物狂おしい思いをしていたところに、井筒俊彦が『起信論』のことばを投げ込んできた(『意識の形而上学』中公文庫、2001年)。

 《「一切の言説は仮名(けみょう)にして実なく、ただ妄念に随えるのみにして不可得(=コトバでは存在の真相は把握できない)なるを以っての故に、真如というも、また相(=この語に対応する実相)の有ることなし。言説の極(=コトバの意味指示作用をギリギリのところまで追いつめて)、言によりて言を遣るを謂うのみ(=コトバを遣うことによって、逆にコトバを否定するだけのこと)」……》

 《「当(まさ)に知るべし、一切の法は(=本源的には)説く可からず、念ず(=思惟す)可からず。故に(=こういう事情をはっきり心得たうえで、敢えて)真如となす(=真如という仮名を使う)なり」と。》

 上記文中の「真如」には強調点が打たれている。『起信論』にいう「真如」というのは、仮にそう名付けたもの。コトバにしてしまうと、その実体/実態があるように思えてしまうだろうが、そうではない。コトバにしなければならないから(仮にそう)しているが、明快にコトバにしてしまえるような実態/実体があるわけではない。それと同様に、それを説明することも意味がないし、それがなんであるか考えることにも意味がない。「真如」とはそういうものだ、と。これは私が考えている「混沌の海」と同じことを謂おうとしている、と受け止めた。

 《「真如」とは、字義通りには、本然的にあるがままを意味する。「真」は虚妄性の否定、「如」は無差別不変の自己同一性。もとサンスクリット語******の漢訳で原語的にも「ありのまま性」の意。真にあるがまま、一点一画たりとも増減なき真実在を意味する、とでも言っておこうか。》

 井筒は、《「真如」という仮名によって名指される意識と存在のゼロ・ポイント》と見事に表現している。そういう意味では私も、井筒を借用して「真如」と呼ぶことにしてもいいが、残念ながら『起信論』を目にしたわけでもないし、サンスクリット語を身の裡に落とすこともできない。やはり私の堆積してきた文化的径庭を重んじて「混沌の海」と呼んで、使っていきたい。

 大事なことは、混沌の海に「わたし」の意識と存在のゼロ・ポイントがあるという実感である。その海が、36億年の生命体の歴史ばかりか、135億年に及ぶビッグバン以来の宇宙の生成とそこにおけるミクロの物質の形成と崩壊と拡散が、何がしかの形でかかわっているという、おおよそこのちっぽけな意識と存在に似つかわしくない壮大な堆積によって、かたちづくられてきたことである。わが(なしたる)ことではないが、まさにわが(身におよぶ)こととして誇らしい。135億年がわが身とひとつながりになる。そう実感してとらえられるのも、ミクロとマクロの世界のここ何十年かの探究のおこぼれを、一知半解ながらわが身に受け止め、わが「妄想」を膨らませてきたからにほかならない。

 その混沌の海が、「わたし」の意識と存在の起点であると思うからこそ、私の感性や感覚、思索や傾きの根拠を問うていくことが、混沌の海から「わたしの輪郭」を引きずり出し、翻って「せかい」をつかみ取っていくことになると、実感できるのだ。それは同時に、ほかの人たちの言説や振る舞いを鏡としてわが身を見て取ることでもあり、日々何を見ても、135億年を写し取ると思えば、興味津々の森を遊行する思いになるのである。

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