2019年4月22日月曜日

言語以前と言語以後の端境


 もう40年以上も前になる。二人の友人とやり取りをしていて、「世界は言語だよ」と言われて絶句したことがあった。一人はフランスの現代哲学に通暁している方、もう一人は仏教に通じている方。そのとき何が話題になってそういう言葉が飛び出してきたのか、すっかり忘れているが、当時の私の経験的な「おもい」からすると、言語になる以前の茫漠たる混沌の海が私の胸中にあると感じていた。


 例えば、今こうしてものを書きつけている。これが私にとって面白いのは、自分が思ってもいなかった言葉が紡ぎだされてくるからだ。作家はものごとの(ストーリーなど)全体像をイメージして創作に取りかかり、登場人物を原稿用紙の上で遊ばせていくうちに、道筋が広がったり膨らんだりするのだろう。だが私のように、出たとこ勝負で思い浮かぶままに文字を連ねていると、その書き記されたことばをきっかけにして混沌の海から引きずり出されてくるコトがある。それがことのほか面白く感じられて、いっそう私のモノを書くクセが刺激されてくる。それを内なる外部というのだと物の本を読んでいて知った。私はそれを、「わたし」の輪郭を描く行為と考えている。

 これは、ことばになった領域となる以前の領域の端境を往還する心根の状態が表出しているからだ。ことばになる以前の領域を混沌の海と私は呼んでいるが、そこはありとあらゆるモノゴトが渾然と溶け合って揺蕩っている。生物的な系統発生をくり返す中で進化してきた過程の蓄積が、ことごとく堆積されている。むろん生まれて後に身に着けてきた身心の習慣も、無意識として備わっている。その茫漠とした世界と言葉にして意識されている世界の端境にこそ、生きている実感の根拠が横たわっているように思える。

 まだ言葉になるかならないかの端境の揺蕩いが、人が生きている実感なのではないか。AIとの対比を考えていていつも思うのは、AIには、この揺蕩いがない。いつでもYES/NOの選択が迷いなくなされ、次へ次へと選択に次ぐ選択が待ち受けている。しかし人は、ためらい、迷い、覆し、決められない。それは言葉にならないコトゴトの「せかい」が内側に広がっているからだ。この内側の「せかい」があるという感触が、存在の根底を支えていると思うようになった。

 身心の慣習と先ほど述べた。人はいつでもそうだが、ことばで生きているわけではない。薫習(くんじゅう)ということばがある。もともとは仏教用語だったようだが、広辞苑は「物に香りが沁むように、あるものが習慣的に働きかけることにより、他のものに影響・作用を植えつけること」と語釈している。原義がもともと、この表現にみるように他動的な意味合いを持つのかどうか私にはわからないが、私はむしろ、「物に香りが沁みこむように、ある環境に身をおくことにより、他のものごとの影響・作用がいつしか身に及んでいること」と、中動態的に語釈したい。「環境」に位置する人々も、その「香り」を移そうと思っているわけでもなく、ひょっとすると「香り」自体を意識していない。能動的な薫習なら、教育と呼べばいい。いつしか身に沁むように、つまり(何ものかの手によって自然に)薫陶が施されたかのように身に備わっているからこそ、無意識の(心の)習慣になるのだ。それを(身の裡に)発見して驚くのが、生きている実感につながる。仏教用語が能動的に語られるのは、仏の教えを大衆(だいしゅ)が学ぶという型を抜け出せないからだろう。だが、仏も自然と考えれば、中動態的な語釈のほうが、私たちの実感にそぐう。

 つまり、私たちの混沌の海は、生物的な進化の過程で紡いできたありとあらゆるコトゴトが渾然一体となって、実存の土台をなしている。そして私たちのことばは、私たちの意識した世界の入口にある。なぜ入り口というか。じつは言葉も、口にする当人のものではなく、その当人を取り巻いてきた環境のものだからだ。ただ環境全体としてみると、ことばこそ「意識」だということが出来る。

 井筒俊彦が『大乗起信論』を解読している文章を読んでいると、上記で私がとりあげた端境の領域のイメージのことを「アラヤ識」と呼んでいる。もともと「阿頼耶識」は唯識哲学の用語だったようだが、井筒はそれを崩して『大乗起信論』における概念を規定して用いている。広辞苑では「人間存在の根底をなす意識の流れ。輪廻を超え経験と蓄積して個我を形成し、またすべての心的活動のよりどころとなる……」と解説する。ここには、すっかり「意識の世界」に入って後の概念規定になっているが、井筒は混沌の海――別のことばでいえば、あらゆることが一つに溶けあっている存在の根源――から意識が生み出されてくる中間領域の、いわば意識の芽生えの状態を表している。

 こうしたことに私の目が向くのは、AIと人間との差異を浮き彫りにするには、ことば以前と言葉以後殿端境領域の移ろいをとりだして、それが私たち人間が生きていることを感じとるうえで、どういう力を持っているかを見て取らなければならないと思うからだ。

 井筒俊彦というイスラム研究者が、西欧ばかりかアラブ圏や東洋の仏教哲学を渉猟して、宗派に分かれた宗教研究としてではなく、人の感性や感覚、思索や言葉の展開として、つまり哲学として一元的なプラットフォームをつくるべく語りだしていることに、いま大きく啓発を受けている。経済活動のグローバル化ばかりが目に映るが、こうした文化人類学的と言ってもいいような系統発生的領域へ踏み込んで、混沌の世界をひとたび作り出し、そこから改めて分節化して言葉を繰り出していく作業は、偉大な知恵の復権のように思えて、わくわくしている。

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