2019年4月8日月曜日
啓示か予感か単なるこじつけか
ふと、思い出した。今日4月8日はお釈迦さんの誕生日、花まつり。子どものころ、近くのお大師堂へいって、甘茶をごちそうになった。キリストの生誕祭というような、知意識的な行事ではない。日常の風景のなかに溶け込んだ、緑の山の中腹にあったお大師堂の白壁が思い浮かぶ。お釈迦さんが何をどうなさった方かも知らず、ただあるがままの「われ」を包み込むような気配を、好ましく感じていたように、振り返って思う。いま思うと、あれが私の宗教的体験のひとつなのかもしれない。安心してわが身を委ねる心地。それは宗教的体験の原型と呼ぶようなことだったかもしれない。
私はいまでも、不信心者で、問われれば無宗教とさえいえるかもしれないし、汎神論的でありとあらゆるものに魂の宿ると思うアニミズムの自然信仰者ともいえる。これという宗派的所属をもたないものにも宗教が認められるなら、私は後者だと、これは自信を持って言える。いいか悪いかは知らないし、そんなことはどっちでもよい。私の内奥のたしかな核をなしている。
そう言えば昔、目にした文芸雑誌のなかに「下北半島における青年期の社会化過程に関する研究」というふうなタイトルの作品があった。いや目にしたのか、誰かから聞いて耳にしたのかも、おぼろで分からない。誰が書いた、どんな話かは、いうまでもなく記憶にない。だが、覚えているのは、それが論文ではなく、評論でもなく、小説だったことだ。ドキュメンタリーじゃなかったと思う。なぜそんなことを覚えているか。表題のような研究が、とどのつまり小説仕立てでしか記し置くことが出来ないことに、意表を突かれる思いがして、印象深かったのだ。逆に、これも誰の小説だったか忘れたが、もっとずうっと昔、「寝る方法」という短編小説を読んだ覚えがある。「ベッド側面部を背にして立ち……」とはじまる。まことに寝る方法を手順を踏んで記し置く、文章修業的な作品だったが、目撃したことをこのように想起し、対象化して記すということは、自分の見ていること/見ていないことの隅々までを、一つ一つ丁寧にチェックすることであり、すなわちそれは、「自分」の輪郭を描き出すことだと思って印象に残っている。
私たちの記憶は、時と所と人と出来事とそれらの比喩や暗喩や、ときには思わぬ飛躍によってつながれて、想起したり埋没したまんまだったりする。そして、ひょいと思わぬ時に思わぬところで思い起こされて、それが案外、目下の思念の中心的なテーマに依りついていたりする。これも、わが身の裡の外部であるともいえる。
その想起することごとが、ちかごろ、なんとなく一つのテーマに凝縮していくような気配を感じている。私は研究論文を書いているわけではないし、ひとつのテーマを追い求めているわけでもないから、少しも無理をしないで、過行くよしなしごとをまとめようともしないで、ぼんやりと眺め暮らしているわけだが、それでもなんとなく、ひとつのテーマとでもいうような塊になりつつあるような感触を感じている。それがなんとなく「私の平成時代」を象徴するような気がしているのは、啓示だろうか、予感だろうか。あるいは単なるこじつけなのだろうか。
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