2019年4月8日月曜日

気息をとらえる目撃録


 朝井まかて『落陽』(祥伝社、2016年)を読む。図書館の書架に合ったものを、ふと手に取った。ちらちらとみると、明治末から大正期のことを書いているらしい。借りてきた。私の父母がいずれも明治末の生まれ。父は亡くなって34年、母は5年になる。母が亡くなってのちに、どんな時代を生きたのだろうかと関心を傾けはしたが、せいぜい大正デモクラシーとか大正教養主義といった概念的なことだけ、母の書き遺したものや生前の話などと噛みあうところを切りとって理解したような、半端な気分が、私の裡側のどこかに残っていた。それがこの作品を通して、見事に描き出されていると感じた。


 物語は、明治天皇の崩御とその後の明治神宮の造営、明治神宮の森づくりをめぐって展開している。だが、この作者の描き出したいのは、(よく描かれたきた)この時代を生きた人々の「気概」ではなく、その根底を流れる無意識の「気息」。いわば日本の近代をつくった人たちが、どのような心もちに突き動かされて転換期に臨んだか。舞台回しは、一歩、ステップアウトした新聞記者たち。大新聞ではなく、小新聞と呼ばれる読み売りの、いわば活版印刷の「かわら版」の記者たち。

 その記者たちのみてとる光景は、日本の近代化の奔流の底を流れる人の気性へ向いている。国家や政治の中枢というよりも、庶民の気息とクロスする在処を探り当てたところに、明治天皇が位置している。京のお公家さんが東の都に担ぎ出され、日清・日露と富国強兵路線を突っ走る最先端のシンボルに担ぎ出された明治天皇が、しかし、日露戦の多数の戦死者を見つめる視線の悲哀に、三文記者が庶民の感懐を重ねて受け止めようとする。時の流れを取材して、庶民の気息の流れから文字通り刻みつけて置こうとする「目撃録」にほかならない。その二重三重の物語の設えが、人の心もちにしっかりと焦点を合わせた視線をもち、それを描き出すたしかな腕を感じさせる。

 時代の流れの由来を簡単には省略できないから、明治維新のころから明治の終わりの風の流れ、その後造営されていく明治神宮と森の「自然林」を育てるという「事業」。それが150年先を視界においた試みであることを明治という時代の気息として受け止めると、国家の隆盛どころか、産業振興や景気浮揚まで含めて、近視眼的に見える。とても樹木が成長して森をかたちづくるであろうイメージに追いつかない。そういう息の長い世界観を、自然と一体化する感性の中で、かつて私たちは身に着けていた。近代化という自然から離陸する世の中で私たちは「自然」を忘れてしまっている。

 神宮という森厳な雰囲気を醸し出すのは針葉樹でなくてはならないという既成の観念に対して、その地にあった天然樹木を植え、手入れをしなくとも鬱蒼たる森をかたちづくる150年後のイメージを懐いて、樹木を育てる。しかも、「明治」という時代(日本の近代化)の歩みの根底に流れた人々の気息を吸収するように、全国からの献木を、枯らさないように丁寧に処方して、すべて植え付けていく。そうした相矛盾する作業を合わせて、神宮の森の生育が、いわば人々の心もちを統合する象徴のようにつくられていく。

 作者・朝井まかての、「自然」と人生の有為転変と社会の変容とをひとつながりのものとして視界に収めようとする「せかい」のとらえ方に敬意を表するとともに、そのあたりに、今の日本がこれから歩む道筋があるように感ずるのだが、どうだろうか。

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