2019年5月31日金曜日

「わたし」というミステリー(3)「わたし」になる道程


 ちょっと寄り道してしまいました。篠田節子『鏡の背面』(集英社、2018年)の物語に戻しましょう。虐待や自傷行為、アルコールや薬物中毒で普通の暮らしを送れない女性たちの避難所を営む主宰者が、死後、入れ替わっていたとわかって、その謎が解き明かされていく本書の話の運びは、「ひと」が何に拠って「わたし」と特定され、なにをもって他者からの「信頼」を得るのかを解き明かす過程でもあります。

2019年5月29日水曜日

「わたし」というミステリー(1)身の裡に降りる語り口


 読書のコラボレーションというと、何のことだと思うかもしれないが、山へ行った往復の電車のなかや、団地総会の理事長として務める最後の準備にかかっている合間に読んだ本二冊が、私の意図したことではないのに、コラボレートしていると感じた。

 ジェラルディン・ブルックス『古書の来歴(上)(下)』(RHブックス+プラス、2012年。原著はPEOPLE OF THE BOOK 2008年)と篠田節子『鏡の背面』(集英社、2018年)。前者をなぜ図書館に予約したのかは、覚えていない。後者はカミサンが予約して読み終わったので、私が目を通した。

2019年5月27日月曜日

無事下山した気分


 昨日午後、無事、団地の通常総会が終わった。

 「無事」と意識的に口にするのは、あまり私の本意ではない。やりとりがあってモンダイが浮き彫りになる方が、住民たちの受けとめ方の差異や齟齬が鮮明になる。その違いを解きほぐしていくことが、理事会の活動であり役割と考えているからだ。総会の出席者は、組合員のおおむね5割。ほかに4割が委任状を提出して欠席する。「出欠票」を提出しない住民は約1割。だが賃貸に出している住居やいろいろな事情で空室になっている居室が8%ほどあるから、未提出の数に近い。一概には言えないが、5割の出席者は団地に深い関心をもつ方々と言わねばならない。

2019年5月26日日曜日

わが身のセンサー


 今日(5/26)の午後、わが団地の通常総会がある。一年間務めた理事長役も、総会が終われば解任となる。この一年で何が変わったか。団地をとらえる視線が変わったような気がする。いま私は、団地全体を一つの身体のように感じている。建物も住民も全部合わせて、循環器系が動き消化器系が働き、呼吸器系が作用している、と。

2019年5月24日金曜日

まるで開拓期の山? 箱根・白銀山


 昨日(5/23)、好天の箱根湯本に足を運んだ。白銀山。目にした「山行記録」には、全行程6時間45分、道が不明瞭、藪山と記している。なるほど、国土地理院の地図にも登山道は山頂までしか記されていない。山頂には「←150m箱根ターンパイク」と、もうすっかり崩れて文字も読めないほどの板の標識が地面に置かれていた。

2019年5月22日水曜日

「役に立ちたい」は浮ついた自尊感情である


 本欄4/19の「生きていくということ」で取り上げた「(4/18)の朝日新聞社会面の記事」の続報というか、追加記事が昨日(5/21)の夕刊に掲載されている。コラムの名は「取材考記」、記者は東京科学医療部の肩書を持つ小宮山亮磨氏。タイトルは「ある研究者の死・その後 彼女は役に立ちたがっていた」。

2019年5月21日火曜日

民間信仰には身の習いが詰まっている


 聖観音堂の話をもう少し続ける。お堂のなかに閻魔様と奪衣婆と十王が安置されていることは、はじめに書いた。msokさんの十王の話が面白かった。十王は地獄の審判官。wikipediaは「人間をはじめとするすべての衆生は……」と書き始めている。とすると「衆生」というのは「生きとし生けるもの」という意味なのだ。私は、ガツンと頭を殴られたような気がした。そう言えば輪廻は、蟲にも仏にも生まれかわる。wikipediaが万物を一視同仁にみているとは思いもしなかった。

2019年5月20日月曜日

「身近に感じる」深さ


 5/17に「どこまでさかのぼれるか」と、旧尾ヶ崎村の聖観音堂、「庚申塔・青面金剛」のことを記した。庚申塔や「いん師碑」と名づけられた石碑、半鐘に彫り込まれた銘文が、おおよそ300年程前以降の尾ヶ崎村に暮らす人々の気配がうかがえて、起ちあがるようであった。それが「吉宗のころよ」とか「飢饉があったあの天明ですよ」と謂われて、学校で学んだ「歴史」と結びつく。

2019年5月19日日曜日

先が見えると元気が出る


 昨日(5/18)は隔月に行われるseminarの日。講師はmdrさん。お題は「日本語大丈夫ですか?」。英語を飯の種にして生きてきた講師が、日本語の来歴、現代人のことばは何時代まで通用するかなどなど、日本語にまつわるいろいろなモンダイを拾って、皆さんに問うというもの。つまり英語という外側から見た日本語を俎上に上げてみようという、トピックもの。「戦争に負けることは言葉にどういう影響を与えるのか」というモンダイにまで踏み込み、いかにも戦中生まれ戦後育ちの世代的面目躍如といった展開。seminar後の会食もあって、久しぶりにお酒をしこたま呑んでしまった。

2019年5月18日土曜日

どこまでさかのぼれるか


 昨日(5/16)「ささらほうさら」の月例会。今回は、室内の教室ではなく現地に出向いて遺跡を探訪した。講師はmsokさん。今はさいたま市の岩槻区にある、旧尾ヶ崎村の聖観音堂。住宅が立ち並び始めた新興住宅街のはずれ。ほんの1kmほど先に埼玉スタジアムのドーム屋根が見える。かつての岩槻市からみると、越谷市と浦和市の端境にぐい~っと割り込んでいる最南西端。見沼田んぼの東、綾瀬川を水源とする田圃が、かつては広がっていた。さらに東には元荒川が流れをつくる。もっと古くまで目を遣ると、古東京湾の一角になろうか。msokさんの話によると、ほんの20年程前まで、この辺りは水田と萱の原であった、と。

2019年5月16日木曜日

いかにも丹沢設え――大室山・加入道山


 藤野駅で拾ってもらって、道志の湯の先の登山口に向かう。陽ざしが降り注ぐ。「良かったねえ、晴れて」とkwrさん。昨日(5/15)のこと。予報では9時から12時までは「晴れ」だが、その前後は「曇り」。降水確率も30%と少し上がっていた。「いや、晴れてるというより、変わり方が早まったんじゃないかな」とことばを返す。8時50分には歩きはじめていた。

2019年5月14日火曜日

混沌を描き出す本


 いま読んでいて、投げ出したいと思っている本がある。ウィリアム・ギャディス『JR』( 木原善彦訳、国書刊行会、2018年)。図書館から予約簿人間な届いていますというメールがあって、取りに行った。JRって何の本か? 副題をみると「FAMILY OF COMPANIES」と見たとき、えっ? 旧国鉄一家の本? と思っちゃったね。ま、アメリカの企業群とその資本をもつ人々の話ではあるのですが。

2019年5月13日月曜日

最後の理事会


 昨日(5/12)、団地の理事長として最後の理事会を主宰した。あとは2週間後の通常総会を乗り切るだけ。「議案書」もすでに組合員に配布済み。配布したその日に、一般居住者から指摘のあった「事業報告と決算報告の数字の違い」も会計理事と関係理事に知らせ、チェックしてもらった。「事業報告」はその事業にかかわる「請求書」の通り。「決算報告」はその払込みにかかる「手数料」をふくめた金額であったために、違いが生じていた。「手数料」は別項目の支出にする方が良いかと問われ、いやそれは(違いが分かれば)現状で良いと判断し、これも理事会で承認した。いや何よりも驚いたのは、子細に「議案書」の数字を点検してくれる組合員がいるということだ。こうした組合員がいると会計理事もやりがいがあるだろうと思った。

2019年5月10日金曜日

すべてが目下進行中


 齋藤了文『事故の哲学――ソーシャル・アクシデントと技術倫理』(講談社選書メチエ、2019年)を読んで、あらためて、このところ取り組んできた団地管理組合の「不具合対応」のことを考えている。

2019年5月9日木曜日

初夏、好天の堂平山・笠山


 五月に入って、何とも安定しない天気が続くなか、「滅多にない好天の洗濯日和」とTVが報じる昨日(5/8)、洗濯物を放っておいて山へ向かった。奥武蔵の堂平山と笠山。kwrさんをチーフ・リーダーとする、月例の「日和見山歩」。

2019年5月7日火曜日

忘れ物はなんですか


 今朝ほどみた夢はプロットばかりだったが、いま振り返ると、私が忘れ物を探しているような気配であった。脈絡はない。だが一連の夢だ。

2019年5月6日月曜日

なぜ、正義面するのか


 これで連休も終わる。たぶん、TVの令和騒ぎも収まろうから、ほっとする。そう思ってTVをつけたら、夕方の番組で、どこかの河川敷で釣りをしている人とか、畑を耕している人とかを、「それって、違法じゃないですか」と追いかけまわして、追及する番組を放映している。

 河川敷を管理している国土交通省に訴え、ついに国土交通省は「立入禁止」の看板を設けたり、柵囲いを設えたりして、メディアに応えはしているが、それ以上に踏み込む人でもなければ、法的根拠もない。ま、適当にメディアに国有地管理者としての顔をみせて勘弁してくださいよと言っているようだ。

2019年5月5日日曜日

生きるエネルギーの源


 角田光代『笹の舟で海をわたる』(毎日新聞社、2014年)を読む。図書館の「今日返却された本」の書架にあって目に止まった。この人の作品をいつか読んだ覚えがある。そう思ってこのブログを検索してみたら、 2015/7/18に「毎日がお祭りでは苦しくないか」で、角田光代『私の中の彼女』(新潮社、2013年)を読んだ感想を、印象深く記している。どんな話であったか、すっかり忘れている。

2019年5月3日金曜日

言語以前と言語以後の端境(4)日本人の自然観とその変容


 昨日の「心覚えとして」記したことで、ひとつ思い浮かんだこと。民主主義社会における国民の分裂の典型が、韓国政府の、今の振る舞いではないか、と。徴用工の事件にせよ、慰安婦問題にせよ、前の政府が他の国と合意していたことを、こともなげに投げ捨てて、韓国民の苦しみと悲しみを理解しようとしない日本を非難するというのは、まさに韓国社会の分裂が極まっているからではないのか。つまり、政府が変われば、その政府の取り交わしていた「外交的な取り決め」は反故にして当然という振る舞いは、政権の継続性も正当性/正統性も、国民国家としてはもっていないことになる。まさにどのParty(部分)が政権をとったかということによって、揺れ動くポピュリズム・ゲームだ。

2019年5月2日木曜日

心覚えとして


 ひとつ心覚えとして記しておきたい。いま踏み込んで考えることはできないが、いずれ考えつづけていかねばならない大事なことと思っている。

2019年5月1日水曜日

なんとない不安


 山から下りた翌日、朝起きるときに太ももが張っているのに気づいた。珍しい。このところ筋肉痛になったことがなかった。疲れが出ないというよりも、回復しないから筋肉痛が出なくなっていたのだ。4月の山歩きあたりの効果が、出始めているのかもしれない。若返っているのだ。ふふふ。ほくそ笑んでいたら、昨日も軽くだが、痛みを感じる。恢復するのに時間がかかっているのだね。