2019年5月18日土曜日
どこまでさかのぼれるか
昨日(5/16)「ささらほうさら」の月例会。今回は、室内の教室ではなく現地に出向いて遺跡を探訪した。講師はmsokさん。今はさいたま市の岩槻区にある、旧尾ヶ崎村の聖観音堂。住宅が立ち並び始めた新興住宅街のはずれ。ほんの1kmほど先に埼玉スタジアムのドーム屋根が見える。かつての岩槻市からみると、越谷市と浦和市の端境にぐい~っと割り込んでいる最南西端。見沼田んぼの東、綾瀬川を水源とする田圃が、かつては広がっていた。さらに東には元荒川が流れをつくる。もっと古くまで目を遣ると、古東京湾の一角になろうか。msokさんの話によると、ほんの20年程前まで、この辺りは水田と萱の原であった、と。
そこに東京都心と結ぶ埼玉高速鉄道の浦和美園駅というターミナルができ、その少し先に埼玉スタジアムがつくられたこともあって、いわゆる農業調整地の制限が解除されたことから変貌がはじまり、今や田圃は見る影もなく、縦横に走る区画された太い道路と戸建ての住宅と販売中の空き地がしめるようになった。その中に、青々とした森をなすところが何カ所か見える。その一つが、今日の現地・現場。グーグルの地図では「庚申塔・青面金剛」と表示されている高台である。
この高台の南西へ突き出したところが、かつては尾ヶ崎村と呼ばれていた。行政区画的にみると浦和市と越谷市の間につきだした岩槻市の尾っぽである。msokさんに言わせると「崎」とは突き出したところ。たしかに道路からその高台に上がるとさわやかな風が吹く。夏日になろうかと心配していた現地講座であったが、帽子をとって木陰で風にあたるとホッとする。
その高台の突端、20m×30mほどの一角が「聖観音堂」のある「庚申塔・青面金剛」である。ちょうど保育園の園庭ほどの広場があり、南西と北が大きな木に囲まれている。拓けている東側には何本もの大木があって、鬱蒼としていたそうだが、最近伐採されたという。「何しろやぶ蚊が発生してね」と、父親が亡くなってからこの地の手入れに通うようになったmsokさんは笑う。素通しになった東側に墓石が何十基か並び立つ。木を切ってみるとすぐ際の低地にまで住宅が押し寄せてきているのが分かる。
北側に観音堂がある。南面が5間、奥行き2間半というところか。住宅風に謂えば2K。台所とトイレも設えてあるが、今は無住。ここを墓所とする10軒ほどが交代で、観音堂の保持のために、風を通し、掃除をしていて、msokさんも月に2回は足を運んでいるそうだ。畳敷き十畳間の北側に閻魔大王と奪衣婆と十王が控えている。いつ頃の制作になろうか、いずれも古びて、なかには片腕がないものもある。msokさんは、子どものころ奪衣婆が恐かったという。なるほど、お仕置きとしてここへ連れて来られて、悪いことをするとこれこれこうだよ、奪衣婆が三途の川のほとりで衣服をはぎ取って……閻魔様の前に引き出され……と話しを聞かされると、ごめんなさい、もう悪いことはしませんと思ったのかもしれない。
msokさんの現地講座は、まず庭からはじまった。この高台に上がる石段が西側と南側に二つある。その南側の石段は、かつて木の階段であったらしい。それが石段になったのは、昭和18年10月10日、msokさんが生まれてまだ20日しか経っていない時であった。ということが、石段の一番下の石碑に記されているというので、降りてそれを読む。何某という人が長年故郷の恩に報いたいと考えて35年余、この青面金剛の階段をしっかりしたものにし崩れようとする土を止めようとしたが、時あたかも大東亜戦の最中、資材もなく難儀をしたが、やっと思いを達することが出来たと、記して、竣工の期日を記してある。彫り込んだ文字も崩れることなくしっかりとしている。75年ものだ。
もう一度上に上がってすぐ右にある石碑が「庚申塔」だという。正面に、邪鬼を踏んづけた青面金剛浮彫立像が立つ。その一段下には、三匹の猿。口を抑え、耳を塞ぎ、目を隠している。回り込むと左側面に「宝永四丁亥十一月吉祥日」とある。宝永というのは1704年~1711年とmsokさんが絵㋔度のはじまりから平成までの元号を一覧表にしてくれている。つまりこの庚申塔は、1707年の建立である。う~ん、いまから312年前か。塔の上に屋根型の石の帽子が乗っているのが、古い形という。「為二世安楽」とも彫り込んでいる。次の世への願いを込めているのであろう。「享保十一丙午」(1726年)の庚申塔もある。こちらは「施主 尾ヶ崎村 男七人 女十四人」とある。この地を墓所とする人たちなのであろうか。男も女もちがいなく扱われている気配がして、江戸時代の村落における性差別が、私たちが教科書で教わっているものとは違うものだと感じさせる。
観音堂の方を振り返ると、軒先に小さな半鐘がつるしてある。「よく戦時中に(供出で)もっていかれなかったねえ」と、どれかから感嘆の声が上がる。「小さかったから、隠したんじゃねえか」と別の誰か。その銘文には、13人の童子童女の戒名が彫られ、「寛保二……」(1742年)とある。これも300年近い時歴を持つ。「武州岩附領尾ヶ崎村 施主鈴木彦三郎」とあり、作者の匠の銘もある。鈴木彦三郎というのは名主だったのだろう。「領」というのは、ここが天領であったから、旗本か直参の管理管轄地だったのであろう。「そうだよ、飛び地で領家辻などという名称が残っているのも、その名残だね」とmsokさん。
「いん(しめすへん+垔)師碑」と彫り込まれた、自然石の大きな石碑がある。「いんし」というのは「神を清め祀ること」と広辞苑にもある。msokさんによると「これは村の人たちにモノゴトを教えていた人を顕彰するために教え子たちが建てた石碑」だという。「字武雅姓鈴木俗呼称文之進従天明至文化年中迄在職三十四年文化十三年……(1816年)没……」と長文の功績をたたえる文言が彫り込まれている。建立されたのは嘉永四年(1851年)武雅門弟子としてたくさんの村と大字と氏名を記し、最後に「当村セハ人 志村大作 真々田沢右エ門 森住幸次郎 鈴木開之丞」とある。このセハ人の一番前と一番後ろの人の墓が、この観音堂にあるから、そういう係累を継いできたのであろう。そう言われてみると、msokさんも「文之進」である。石碑をたてて神と祀られるかどうかは知らないが、モノゴトを学び考えていくことにおいて人後に落ちない生き方をしている。当時に思いを馳せれば、当時の農村の人々が、回状という行政伝達の文書を読み、書き記し、次の村へ知らせるという情報回路のチャンネルを担っていたのであるから、まさしく、文字を教え、それに伴うものごとを語り教えて、世代を受け継いでいくという文化伝達の役割を担っていたろうし、同時に、それを神と清め祀って顕彰しようという村人たちの気概もうかがわれて、面白いと思った。
こうして遡ってみていると、わが身の外に流れ伝承されている「歴史」と違って、わが血脈に流れ伝わっている文化伝承の証が起ちあがるようであった。新奇なものに目を奪われ、あるいはそれらを追い回す「情報伝達」の社会が、ど~んと篤く地道な前歴を積み上げてきたのだと、わが身の奥行きの深さを感じとるようであった。
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