2019年5月27日月曜日

無事下山した気分


 昨日午後、無事、団地の通常総会が終わった。

 「無事」と意識的に口にするのは、あまり私の本意ではない。やりとりがあってモンダイが浮き彫りになる方が、住民たちの受けとめ方の差異や齟齬が鮮明になる。その違いを解きほぐしていくことが、理事会の活動であり役割と考えているからだ。総会の出席者は、組合員のおおむね5割。ほかに4割が委任状を提出して欠席する。「出欠票」を提出しない住民は約1割。だが賃貸に出している住居やいろいろな事情で空室になっている居室が8%ほどあるから、未提出の数に近い。一概には言えないが、5割の出席者は団地に深い関心をもつ方々と言わねばならない。


 ところが昨日の総会は、穏やかなわずかのやりとりが行われ、いくつかの質問や議案書の趣旨に賛成であるが追加したいという意見が述べられて、議長の予定していた時刻にぴったりと終わる運びとなった。1年間の役割から解放されて肩の荷を下ろした理事・役員たちは、うれしさを隠しきれない。その喜ぶ顔を観ていると、私もうれしくなる。だが私には、肩の荷を下ろすというほどの実感がない。なんだろう、これは。

 そう考えて、ひとつ思い当たったのは、無事に下山したときの軽い達成感とホッとした思いに似ている。きびしいルートとか難しい道程ではなかった。多少の急傾斜や足場の悪いところはあったが、28年間、先達たちが歩いた踏み跡がしっかりとついている。ただ12名の人たちを引率して、道を迷うこともなく、怪我に遭うこともなく、無事に下山までこぎつけた。皆さんはそれなりの達成感を感じて喜んでいる。私は、そのガイドをしたというだけのこと。それぞれの道程を歩いたのは、間違いなくそれぞれの力量だ。もともと荷の軽い方もいた。ほかの方に荷を背負ってもらって、でもそれに気づかずに自力で歩いたと思っている方もいる。その人たちが一様にうれしさを隠せないのは、みんなで歩いたという「かんけい的道程」を感知しているからだ。ほかの人の発揮した力量もわが身のもたらしたものと感じられているからだと、私は理解した。ちょうどわがカミサンが「恵まれてますよ、(今年の)あなたは」と言ったように、ほかの方々も「恵まれていた」のだ。

 上記のようなことを記しながら、一つ思い浮かんだことがある。もし私が、理事長としてガイドしたと言ってしまうと、それは私のアクションになる。だが私のアクション自体が、副理事長の手配や気遣い、建築理事の敏速な対応、環境理事のボランティアの後方援護を受けながら進めてきた動きに支えられ、スムーズに展開したというなりゆきの流れがある。俗に言うと相性が良かった。それを「自然(じねん)」と言ったのではなかったか。

 つまり、私のアクションとしてまとめるとなると、私の能動性を強調することによって、他の人たちは理事長に引率された受動性が際立つ。だがそう感じてことばにする方もいるが、事実は相互関係的に動きが生じ、徐々に闊達になり、たぶん本人自身が考えてもいなかったほどよく動いたという面々の実感が、「無事に終わった」という破顔一笑に集約されていたのではなかろうか。その運びに呈されていた「自然」自体、中動態的な関係態、を喜びたいと、今私は、自画自賛している。

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