2019年5月1日水曜日
なんとない不安
山から下りた翌日、朝起きるときに太ももが張っているのに気づいた。珍しい。このところ筋肉痛になったことがなかった。疲れが出ないというよりも、回復しないから筋肉痛が出なくなっていたのだ。4月の山歩きあたりの効果が、出始めているのかもしれない。若返っているのだ。ふふふ。ほくそ笑んでいたら、昨日も軽くだが、痛みを感じる。恢復するのに時間がかかっているのだね。
29日に息子一家が来たので蕎麦を打って食べていたら、NHKTVで「紅白歌合戦30年史」をやっていて、まるで歳末のような気配。昨日も今日も、どこのTVチャンネルを回しても、平成と令和という元号の連呼といきなり天皇信奉者の「平成に感謝」の嵐。なんだよこれって、と戸惑っている。本当に天皇制も含めて劇場化して、皆さん浮かれている。ほんとうに見事に、浮いている。おいおい大丈夫かいって、私はなんとなく不安になる。
梓澤要『捨ててこそ空也』(新潮社、2013年)を読む。空也上人誕生の根っこに出逢えるかと思って読んだ。ほんの少しかするが、着地点を見損なったか、理屈のほうに引きずられてしまっている。10世紀、平安時代の人びとの暮らしの気配に空也の宗教的心情が溶け込み、そこから信仰が起ちあがる場面へと導きながら、井戸を掘り橋を架け、棄てられた遺体を葬り、丹念に人々のたたずまいに向き合う子細の根っこに、視線が行き届かないもどかしさが残る。当時の国家仏教から民衆仏教への渡りをどうつけるか、どこにどのような空也の振る舞いがあったかを探るような気持で読んだのだが、ほんの触りだけ、あとは天台教団とのかかわりや教義的な感心に引き寄せられて、せっかく登場した頑魯という自然(じねん)の信仰者の立ち居振る舞いを民衆の立ち居振る舞いとして一般化できなかったように思う。空也よりも、頑魯のほうが遥かに念仏宗のありようにふさわしかった。
後でこの作家の履歴を読んで腑に落ちたのだが、50台の半ばにして大学院で仏教学を学び、「本書はその結実である」と紹介されていた。民衆の暮らしの源泉に近づいて空也の心根の方に作劇が傾いていれば、僧侶という指導者の位置に置かずとも念仏宗のありようが浮かんだのではないかと思える。
もうひとつ、山の往き来に読んだのが伊坂幸太郎『魔王』(講談社、2005年)。憲法改正という政治課題を領導する政治指導者の登場に、なんとなしの不安を感じる庶民の視線から切り込んで、日本の民衆の佇まいを描きとろうとする作品。と言って政治論を展開したいわけではなく、庶民の文化状況を掬い取ろうとする意欲作といってもいい。その切りとり方が、面白い。是非善悪を簡略につけない、この作家のスタンスが、そうした文化状況に切り込むときに立つ次元を探るようで、興味深く読みすすめた。
読み終わってTVをつけたら、令和の大合唱。なんだかこの作品、2005年に書かれたとは思えない。2019年のドキュメンタリーを読むようである。「新しい時代がはじまる」なんて、騒ぐ要素はどこにも見当たらないのに、TV画面の、若いこの人たち何やってんだか、と。
なんとない不安。
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