2019年5月2日木曜日
心覚えとして
ひとつ心覚えとして記しておきたい。いま踏み込んで考えることはできないが、いずれ考えつづけていかねばならない大事なことと思っている。
先日図書館の雑誌を見ていて、社会学者の大澤真幸が面白い指摘をしているのが目に止まった。雑誌は月刊の『Journalim 4月号』。「天皇論」を特集している。その中で大澤真幸が「天皇制の謎と民主主義」を書いている。要点は、日本の民主主義が機能しているのは「天皇制」について大方の日本人の「思い」が一致しているからだというもの。つまり、民主主義というのはいろいろな意見の違いがあっても、決まってしまえば反対意見の持ち主をも拘束する。いま世界を見てみると、それが壊れてしまって、アメリカですらトランプを大統領と認めないという勢力は半ばを占めて落ち着かない。まして、イスラム圏その他の国々でも、分裂と対立は行きつくところまで行き着いているように見える。ところが日本では、投票率が低かったり、小選挙区制の作用で少数者の圧倒的多数支配がまかり通っていても、究極のところ民主主義が機能して、反対者をも統制している。その根幹に、天皇制に対する「思いの一致」があるからではないかと、説いている。面白いのは、なぜ一致しているのかについて、大澤真幸は「わからない」としていることだ。
先日のこの欄で、元号が変わることにはしゃぐメディアや若い人たちのことを、不思議な動物でも見るように、私は書いた。なんとなく不安とも記した。それは率直な私の実感なのだが、では、大澤真幸の指摘に異議を申し立てる根拠があるかと自問すると、単なる私の感懐を述べる以外に、言いようがない。天皇制になぜか身を寄せてしまう人々の姿に、異議申し立てをする立場がない。せいぜい、天皇一家の人権を考えると、彼らを犠牲の羊にして私たちは何を手に入れているのだろうかと、それもまた疑問符をつけたまま、棚上げするほかないと思うばかりなのだ。つまり、人権という次元の話になると、もともと共和制的に政治体制を設えるという単純な民主主義の展開になるなあと、頭で考えているだけだ。
大澤真幸はそういう言葉を使っていないが、天皇制を人びとの心情の集約点のようにとらえているのは、私たちの身体なのではないか。長年の心の習慣が、島国の一体性をアイデンティティと感じる、共同感覚を私たちの身に根付かせているのかもしれない。そういう感性を、いつ知らず身に着けているから、つい内と外という分け方になると、日本人とか、日本国籍を持っているとか、日本人の血を引いているとか、日本語を話すとか、似たような文化を身に着けているということに、「同族的/同俗的/同調的」な連帯感を感じとってしまう気質を育ててきたのだろうか。
いまはこれ以上踏み込む余裕がないが、たぶんこれは、わたしの根源にかかわるモンダイと通底していると感じている。
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