2019年5月29日水曜日
「わたし」というミステリー(1)身の裡に降りる語り口
読書のコラボレーションというと、何のことだと思うかもしれないが、山へ行った往復の電車のなかや、団地総会の理事長として務める最後の準備にかかっている合間に読んだ本二冊が、私の意図したことではないのに、コラボレートしていると感じた。
ジェラルディン・ブルックス『古書の来歴(上)(下)』(RHブックス+プラス、2012年。原著はPEOPLE OF THE BOOK 2008年)と篠田節子『鏡の背面』(集英社、2018年)。前者をなぜ図書館に予約したのかは、覚えていない。後者はカミサンが予約して読み終わったので、私が目を通した。
むろん勝手に私の内部でコラボさせている。どちらもミステリーに属するといえようか。
前者はペンギンブックスの一つ。たぶん誰かがどこかで標題に触れ、面白そうと思ったので、図書館に予約したのじゃないか。THE BOOK とあるから、神の言葉を記したもの。そのように意図して15世紀末につくられた絵入りのユダヤ教の写本(実在する「サラエボ・ハガダー」)にまつわる人々を描いている。ちょうどコロンブスが大西洋を横断する直前、異端審問が行われ、火刑も行われていたころにつくられ、500年余の転変を経てきた一冊の本が、20世紀末に解体してゆくユーゴスラビアの一角、ボスニアで発見され、戦火を逃れて古書修復者の手によって謎が解き明かされていくという物語り。
後者は、虐待やDV、摂食障害や自傷、アルコール中毒や薬物中毒から立ち直ろうとする女性たちの避難所を運営するグループを舞台に、そこにかかわる人たちの振る舞いとかかわりと人生とが交錯して、「人」が生きること、「わたし」が生きていることの「不思議」が解き明かされていく。
ミステリーは、単なる語り口の手際(と私は思っているから)、そのお話しの俎上に上がる「人間の不思議(ミステリー)」が、「わたし」の内面と共振して、わが身の裡に錘を降ろしていく。そのように読み取り、そのようにわが身の裡においてコラボする。そうして、両書が和解しえない違和感を宙づりにしたまま、腑の裡に残している。その気分が、また、好ましい。
物語りの前者は、いま手元にみる「古書」に記し残された傷跡や血痕、そのDNAから類推する「来歴」を、著者が(あたかも神の目の如くに)物語る。それに対して後者は、目の前に起こった火災で焼け死んだ二人の運営者のDNA鑑定から、自分たちが信じていた主宰者ではなく別人であった可能性に突き当り、なぜ、どこで入れ替わったかを解きほぐしていく、文字通りの謎解きの物語。語り口の違いは、オーストリア出身作家と日本人作家の違いなのかもしれないが、神が世界をつくったとする唯一神信仰の西欧人の起点と、ことごとくが自然の流れの中において出来し、当然解きほぐされていかねばならないと感じる日本人の「じねん」の違いが、そのおおもとにあるように思った。
前者の語り口では、キリスト教世界でユダヤ人がなぜ、かほどに忌み嫌われ、なおかつ共生を赦されて来ているのかを、キリスト起源の物語にかぶせながら、しかし、イスラム世界との対決における資金の確保をユダヤ人に頼り、ことが終われば排除するという「利用価値」において展開している。つまり、ユダヤ人差別というヨーロッパ世界に育つ人たちの胸中に源泉をもつ情念は、神の子の死に起源をもつものと記し置かれて、そこから先には深まらない。人の内面に垂鉛を降ろすことにはすすまない。
後者の語り口は、読みすすめる読者の内心とともに作家の筆が運ぶ。つまり作家もまた、物語りの進行とともに突き当たる不思議と向き合い、読者とともに腑に落としてから次の段階へと歩をすすめる。登場する、世の不幸を一身に背負った女性たちやそれに対して顔をみせる家族やかかわる人たちの立ち居振る舞いを、読者はわが身の奥底を覗き、どこまでかを腑に落としどこまでかを棚上げして、読み続ける。こうして垂鉛を身の裡に降ろす。それは腑のしこりとなって、わが身の輪郭を描き出すまで身に留まる。本を読む醍醐味は、ここにある、と私は思う。(つづく)
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