2019年5月22日水曜日

「役に立ちたい」は浮ついた自尊感情である


 本欄4/19の「生きていくということ」で取り上げた「(4/18)の朝日新聞社会面の記事」の続報というか、追加記事が昨日(5/21)の夕刊に掲載されている。コラムの名は「取材考記」、記者は東京科学医療部の肩書を持つ小宮山亮磨氏。タイトルは「ある研究者の死・その後 彼女は役に立ちたがっていた」。


 内容のトーンは4月の報道とほとんど変わらない。記事になった背景に、編集者であった両親が彼女の遺稿集を出したことにあったこと、彼女の思いが記されていること、記事になった後、両親から手紙をもらったこと、「私がふだん取材している理系の分野」からみても、「何が役に立つのかは長い目でみなければわからない」と、ブラックホールの撮影に成功した研究に「一定の価値があることも、明らかではない」としている。

 4月の記事から私が受けとめた思い(自らの生計をたてるが人生の基本)は再論しないが、この5月の追加記事とは、まったくすれ違ったままだ。
 「遺稿集」がどのような彼女の径庭と胸中を披瀝しているか知らないが、両親が彼女の養育に責任を感じている感触がないことに、私は違和感を感じる。もし(この研究者が)わが子なら、「遺稿集」よりも先に、自らの育て方への反省をしたし、なぜ自死するまで気づかなかったかと悔やんだであろう。この両親の思いを受け止めるように記者が書いているから、両親も記者も一緒くたにして言うのだが、4月の記事も5月の追加記事も、大学院の博士を大量に輩出するシステムをつくりながら、ポスドクの彼らが研究を継続できない社会設計が狭量である、悪い、と焦点を絞り込んでいる。

 この研究者が「役に立ちたがっていた」としたら、それがどのような意味を持つことなのか。(親ならば)言葉を交わさなかったのであろうか。
 一般的に言うと、人が存在すること自体、さらには自力で生きていること自体が「世の中の役に立っている」と私は思っている。その存在自体が親を成立させるし、親子関係を誕生させる。そのつながりは、「世間」と謗られることがあろうとも、祖父母、伯父叔母、兄弟姉妹・従兄弟従姉妹、ご近所の幼馴染にはじまる同級生や先輩後輩という「かんけい」をつくりだしている。それは、迷惑であると同時に役に立っている。
 ときには迷惑であることが役に立つ。病弱であることが医者を成り立たせ、保険機構を保持させ、それによってたくさんの人々の暮らしを支えている。泥棒がいるから警察の存在理由がある。

 だから、「世の役に立ちたい」という自意識は、自分の価値意識の上に築かれている、自尊を外に託して表現した楼閣である。自尊自体は、わが身の裡に生まれる妄念であって、外部とのつながりを求めはしても、外部の評価ではない。わが身の裡と外部との交信が成り立って初めて、この自尊感情はリアリティをもつ。

 秀逸な江戸期の仏教研究者だったらしいが、もしその点に賭けて「世の役に立ちたい」というのであれば、それが世に受け容れられるにはまだ条件が十分でなかったというほかない。文化状況のお粗末さを嘆いてもいい。あるいは先端的な研究者だけが評価しても、それを育てなければならない大切なことと評価する目をもたない社会のありようを取り上げても構わない。でもそれに賭けるかどうかは、本人の自覚的に定める立ち位置だ。
 「理系分野の研究者に取材することの多い記者」からいうのであれば、もちろん、文科省や財務省の狭量を責めても悪くはない。だが、それをいうなら、才能のあるなしにかかわらず、もっと(政府に)目を向けてほしいという領域や声は、世の中に数多ある。だから、もしこれをとりだして力説するのであれば、それほどの秀逸な研究がなぜ職を得られないほど社会的に受け入れられないのかを、説得的に論じた方がいい。

 世の中が、役に立つかどうかわからない優秀な研究者を遊ばせておくほど余裕がないのかもしれない。あるいは、そもそも役に立つとか立たないということで研究活動が価値評価されること自体が、文部科学行政の主軸になっていることがおかしいと批判するなら、そういう論理だてをして展開する道があるであろう。だがそのときに、それは限られた領域で論じているだけだと意識してかからねばならない。
 なによりも日本では、役に立つかどうかわからないものに力を入れるというセンスが、元来あったのだろうか。いつだって実用的、効用主義的に考えてきたのではないかと私は感じている。よく言われるように状況論的で、目先の事態に即応するように考えてはきたが、戦略的というか、長い目でみてモノゴトを構成したり構築するというセンスには、欠けていたのではないか。
 「元来」って、いつのことよ? 「いつだって」って、いつのことを指しているのか? 「日本では」って、だれのこと?
 私が感じる「いつだって」「日本では」は、私がこれまで世の中を観てきた限りではってことだけど、今回のケースも、そのことを証立てているように思う。

 自死したこの研究者の場合、「経済的に行き詰って」という。それは限られた領域のことにすべてをかけたからこそ生じた結果であって、だれもがそれほど高等遊民のように過ごせるわけではない。例えば芸術家などは、貧乏をするものと決まっていた。昔なら、実家が資産家であったり、パトロンについてもらったり、有力な師匠に弟子入りして糊口を糊するようにして凌いだものだ。

 いつだったか、どこかで似たような話をしたら、アメリカへ行き来して暮らしてきた友人が、アメリカでは見返りを求めない寄付が多いが、日本では投資話ばかりねと感懐を漏らしていた。そうか、どうして日本では寄付は少ないのだろうと、あまり寄付などしたことのない私は他人事のように考えていた。
 多額の寄付をするというセンスは、むろん金持ちにしかできない話ではあるが、そのような、富の再分配という社会的な事業は行政が行うという社会設計が、わたしたちの社会の長年の蓄積ではなかったか。つまり、戦略的に見通しをもって取り組むのは行政を担当する「エリート」たちが行うこと、われわれ下々は税を納め、必要な時に投票所に足を運んで「エリート」を支えてやればいいと。寄付するほどのお金をもたない庶民からは、個別の寄付は依怙贔屓として嫌われたのではなかったか。

 そうした社会的背景が、裏を返せば、行政依存を高め、個別の振る舞いを敬遠させ、ボランティアもしり込みする気風をつくりだして来たように思う。そうした長年の文化的蓄積が、ある。それが近年、ものすごい勢いで変わりつつある。行政の「エリート」たちであった官僚が目先の政治家たちに忖度して振り回され、戦略的な視線を投げ捨ててしまった。政治も、家選挙の票と時代の風潮に目を奪われて、すぐに結論の出る「役に立つ」ことにしか取り組まなくなった。国家百年の計などというのは、たんなる空文句になっている。

 この記事がとりあげて謂う「世の中の役に立つ」という価値的な評価は、「せかい」における研究者自らの位置づけの、世間的な評価を意味する。それは、結果として外から得られるものであって、自ら決めることではない。その筋の先達とか師匠の高評価が、単なるリップサービスに終わったとしても、「その筋」自体が社会的にあまり顧みられていなかったりすると、職にもありつけなくなる。そんな事例は、ポスドクならずとも、いくつも出上げることができる。

 「(世の)役に立ちたい」と人が思ったとて、それが通らない社会なんだよというのなら、そう言わねばならないのではないか。自死してはじめてマスメディアに取り上げられて「苦笑している」という両親の言葉には、取材記者への皮肉が込められているのだろうか。そう思ったほどだ。

 この続報には、死者ばかりか両親も記者の実存も感じられない。そのうえに、その外部もない。神の目のような「せかい」が仮構されていて、一人の「優秀な才能」が自死したことを悲劇的に俎上に上げているだけに思える。

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