2019年5月20日月曜日

「身近に感じる」深さ


 5/17に「どこまでさかのぼれるか」と、旧尾ヶ崎村の聖観音堂、「庚申塔・青面金剛」のことを記した。庚申塔や「いん師碑」と名づけられた石碑、半鐘に彫り込まれた銘文が、おおよそ300年程前以降の尾ヶ崎村に暮らす人々の気配がうかがえて、起ちあがるようであった。それが「吉宗のころよ」とか「飢饉があったあの天明ですよ」と謂われて、学校で学んだ「歴史」と結びつく。


 ふと思うのは、不透明なスクリーンの向こうにぼんやりと影が浮かぶようであった「江戸時代」が、なぜ、この石碑や銘文で起ちあがるのであろうか。
 ここを紹介してくれた講師のmsokさんは、私の50数年来の友人。ひょんなことから知り合い、仕事に関してはまったく別の道を歩いて来たけれども、毎月2回は会って言葉を交わすことを半世紀以上も続けてきた。msokさんはお酒を呑めない。なのに、良くここまで(私と)かかわりがつづいたと、振り返って思う。そのmsokさんの父上が七人兄弟の末っ子ということで養子にもらわれて世帯をもったのが、この聖観音堂の守りをすることになったS家であったそうだ。実際暮らしてきた地も、10キロ余離れたK市。「ここは私にとっては外部」とmsokさんは感慨深げだ。父親の死後「墓守り」のように月2回ほど足を運んで、お堂の掃除をしたり、聖観音堂を護る10軒(今はそのうちの2件が途絶えて8件となったそうだが)の一つとしてお役目を務めてきている。そうこうするうちにS家の受け継いだなかに何点もの古文書があり、それを読むために古文書の勉強をして「解読」してきた。おおよそ400年程の係累をさかのぼれるという。これは、柳田国男が「どんなに遡っても400年くらい、それ以上は藤橘源平の類が紛れ込んで、ワケが分からなくなっている」といったものの、いわば一番古いところまで辿れるということだ。

 そのmsokさんのS家の墓所もあり、「尾ヶ崎村名頭覚書」には、村の名主を務めた代々の姓名が記されている。msokさんにとっての「外部」は、さらにその単なる友人である私にとっては「チョー外部」になろうが、どういうわけか、石碑や半鐘の銘文、あるいは昭和18年の、この地の石段を設えた記念碑を観ていると、他人事のような気がしない。建立者の具体的な名前が記されていることもある。半鐘には、幼くして亡くなった童子童女の戒名が彫りこまれている、あるいは、村の文字通り寺子屋で教わったであろう師の名前とそれを顕彰する弟子の名前にS家をみつけると、いかにもmsokさんがその時代に生きていた証を見るような思いが湧き起って来たのであった。

 もう15年程前のことになるが、私が山を歩きながら鳥をみたりしていることを知った、これも半世紀以上付き合いのあった友人が「何が面白いの? 名前を覚えると親しくなってこと?」と訊ねたことが思い出される。この友人は謂うならば知識人の一人で、著書を何冊も著している方だが、そのとき私は、ああひょっとしてこの方は「普遍性」に心を奪われて、個別性を捨象して世界を観ているのではないかと思ったことがあった。私は、個別性が世界をなし私たちはその中に生きている。普遍性は、いうならば私たちの頭のなかに仮構した妄念として存するだけだと考えていたから、この友人は観念世界に生きていくことに意味を感じているんだなと受け止めたことがあった。

 身近に感じると私たちは、わがコトのように受け止める。それは個別性を手放さずに、身体で受け止めることである。身体で受け止めるとは、系統発生的に・遺伝的に・文化伝承されてきた「身」の自然として、その「身」において了解すること。別様に謂えば、腑に落ちるようにわかることだ。観念の世界は、身体性から離陸し個別性を捨象して、それ独自の論理性と視力・視界を設定して世界を描きとることであろう。そのとき捨象された(個別的)身体性は、ついに復元されることがないから、制作された観念世界は、記録される形の永遠性を持つように思えるのではなかろうか。

 とすると、私たちが受け継いでいる文化の伝承性は、いつまでも普遍性を彼岸において、此岸での個別性にわだかまる。そのわだかまりが、庚申塔や石碑の銘文に留められてmsokさんという個別性を介して、わが「身」に起ちあがった。その深さを感じることが、「身近」だったのではないか。そう感じて、改めて「歴史」というものの「身」の裡における復元性を考えてみたのであった。

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