2022年5月31日火曜日

決意――見切る/断ち切る

 昨日はしこたまお酒を飲んだ。コロナの感染が日本ではじまる前以来だから、2年半ぶりか。大学の同じ専攻の卒業生が集まった。全員でも12人しか居なかったのに、そのうち4名が他界。2名が移動に不自由する状態、残る6名がすでに廃校になった跡地に行き、そのうちの一つの建物が二つの大学として使われてはいたが、あとの校舎はすでに取り払われ、区立の公園として利用されている。廃校になって半世紀近くになろうか。跡地に育った公園の樹木は幹回りも太くなり、中には巨樹の風格さえ漂わせているものもあった。建物の裏にあった池の周りは鬱蒼と茂る森になり、裏側の出口は小石川植物園に連なっている。

 卒業後半世紀以上が経ち、すでに傘寿を迎えている者もいる。お昼前に集まり、元構内を散策し、近くのレストランに入って旧交を温めたのだが、そのうちの一人、甲府から来ていたTが別れるとき「これが最後だから」と永訣のような言葉を残した。それはあたかも、今日以降はこれまでの人生とはきっぱりと手を切って、彼岸に渡る準備に勤しんで過ごすからおわかれだねと、「決意」を告げる言葉であったように響いた。その「決意」のほどが私の胸中にじんわりと響いて、今朝になっても鳴り止まない。

 そうか、人との関係の断捨離か。これまでに積み重ねてきた関係の束と縁を切って、すっきりと身を処していく。ここまでの友誼に感謝するとはいわなかったが、80歳になって先の道筋は、まさしく一期一会。曳きずらない。死ぬよりも前に、こういう形の「自裁」があるのか。いやあっても不思議ではない。世の人の歩む歩き方とは、ひと味もふた味も違う、彼自身の歩みがあったろう。その歩み方が、若い頃の古い友人たちにはつたわっていないかもしれない。それはそれで一向に構わない。ただ、そうしたわが身のほんの一角に痕跡を残してきた君たちとも、こうして別れの言葉を告げる機会を持てて良かったよと、いっているのかどうか。彼自身が、自らの内部で、何かを見切り、断ち切った。「決意」するとは、何かを見切り、断ち切る行為。彼は何を見切ったのだろう。なにか「せかい」を見切り、断ち切った。

 ずるずると関係を引きずる。何事もなるようになると、ちゃらんぽらんにすごしてきた私は、「訣れ」という「決意ある振る舞い」は、滅多にとったことがない。山の遭難事故をきっかけに自然消滅していった「かんけい」は、それはそれで「わたしの決意」を必要としなかった。そうか、私が断捨離が苦手というのも、わが「せかい」の一角を捨てることができないからだ。旧交を温めるという、ワケの分からない「かんけい」をよくわからないままに捨てることもできず、保ち続ける。そういう「わたし」の身の習い、つまりクセが肌身に染みこんで、いつも「決意」を回避し続けてきた。

 それじゃあ、起死回生というか、わが身を根柢的に革めるってこともできないわけだ。ま、この歳になって今更だから、それはそれでいいが、甲府の彼は、そこを身切って「これを最後に」と訣れの挨拶をしたんだ。すごいなあ。根を生やしたんだ、甲府に。葡萄づくりに。

 じゃあ「わたし」は何に根を生やすのか。そもそも根付くような土を育ててきてるんかい? そんな自問自答がぼんやりと躰をめぐっている。

2022年5月30日月曜日

浮遊する「わたし」

 1年前の記事「あなただれのおきゃくさま?」を読んで感じたこと。

 この記事は、去年味わった人生の原点でした。1年経った今、それを忘れている日常に戻っています。なんとなくそれでいいかもというわが身の感触が半分、やはり原点を忘れちゃあいけないなあという思いが半分。後者がじつは、神は微細に宿ることを示唆していると思うが、今更それを身につけようという観念は、年寄りには無理筋という思いも湧き起こります。身に遵いて矩を越えず。とすると忘れていいんだよと、長く付き合ってきた躰が呟いているように思えます。

 たぶん「わたし」は、上記両者の狭間を浮遊していて、晴れときどき雨というように移ろっている。それをどちらかに落ち着かせたいという次元の違う心持ちが、これまた身の裡のどこかに巣くっていて、ふとした弾みに顔を出しているのだと感じます。でも、そうした心持ちの動きを意識すると、移ろっている「わたし」が面白いのであって、どちらかに落ち着いてしまったらつまんないじゃないかという呟きも聞こえてきますから、「わたし」の浮遊感が面白いのかも知れません。

 そもそも、確たる「わたし」があるわけではありません。そもそも「ことば」がわが身のものではないように、「わたし」は世間の文化的気風の諸々がほぼ80年分集積し堆積して出来上がっているもの。振り返って辿ってみると、浮遊していない方がモンダイってことです。いや歳をとると浮遊しなくなって、固執することが多くなるのだろうかと、プーチンの振る舞いをみていると思います。この歳になって「わたし」が浮遊しているなんて、素晴らしいと誰かが哲学的に裏付けるようなことをいってくれると、嬉しい。そういうところにいる。そんな感じがしています。 

2022年5月29日日曜日

そうか、ここでお遍路が終わったのか。

 昨日は一日、ボーッと過ごした。車を出して買い物に行き、ついでにカミサンを映画館まで送り届けて帰宅してから、TVを見る元気もなく、図書館で手に居入れた保坂和志『遠い触覚』(河出書房新社、2015年)をちょっとずつ読みながら、何かを想いながら過ごした。5/25と26に青山文平の小説を読みながら考えたことを記したが、その感懐が「ぶらり遍路の旅」の始末がついた証しのように思えた。

 振り返ってみると、今月9日にお遍路から帰ってきてから、「ぶらり遍路の旅・ご報告」を毎日少しずつ綴って仕上げるまで13日かかっている。それに、出発前の心裡の不安を記したものと、歩く途中の海部町の気風にまつわる社会学者の調査報告を読んだ記憶とを付け加えて仕上げた。見出しも含めて、1頁58字×50行二段組み、A4版で20頁。四百字詰め原稿用紙で約140枚になる。

 それをプリントアウトして、17年前のお遍路をするきっかけを作ってくれた友人のカクさんに手渡し、しばらくご無沙汰したご近所の友達にご笑覧頂いて、ぶらり遍路の今回の始末を付けた。「長旅をした」私に「何処へ行ってたの?」と訊ねてくれたメル友にはpdf版を添付してみてもらっている。

 keiさんからの返信。

    《「四国のお遍路」に行ってらしたのですか。前書きしか拝見しておりませんが、自然体が80歳には一番ふさわしいのではないか、最良の選択をなさったのではないかと感じています。(笑)/ゆっくり拝読させていただきます。/私は左膝変形性膝関節症を受け入れつつ、「筋トレで筋肉に働いてもらい、せめて現状維持を」と、3日坊主を克服したく願っている最中です。取り急ぎ》

 とある。そうだね。80歳ともなるとあちこちに故障がくる。ことに膝関節や骨は、よほど習慣的に歩いていないと弱くなってきてしまう。その耐用期限が迫っているんだね。でも「筋トレ」は、わりと短期間で効果が出てくる。現状維持で十分だから頑張って。

 名古屋のohgさんからは、続けて2通の返信があった。

    《小生は足掛け5年かけて、一部は乗り物を使いましたが、曲りなりにも完歩しました。立江寺は僧房で泊まりましたが、隠岐の島の漁師の信仰寺だそうで、泊まった時も島から大勢が参拝に来ていました。丁度お寺の市の日で、老いたおばさん達に代わって遍路してきてくださいと触れられた幸せな?想い出があります。/また、あなが隠岐の島で清遊したのことも併せて想い出します。良い傘壽の記念になると良いですね。》

    《感想を続けます。19番から37番まで一挙に歩くとは流石です。岩本寺にも想い出があります。窪川駅から7.8分の処で泊まりました。美馬旅館と言って、老舗の地方宿ですが、林芙美子等が泊まった文人宿です。天気には恵まれなかったものの、窪川の風情が忘れられません、四万十川の上流域にあって、美馬旅館の料理も美味かった。/岩本寺の天井画に、モンローを描いた一枚があったのはあなたも観たと思いますが、遍路寺では異色ですよね。奥様の故郷から岡山の同窓会出席とは考えましたね。》

 立江寺が隠岐の島と縁があるとは識らなかった。また、岩本寺のモンローの天井画にも気づかなかった。もし「ぶらり遍路」のつづきをやるときは、岩本寺の天井画を見てみよう。美馬旅館には、十年ほど前に泊まったことがある。四万十のヤイロチョウを観に行ったとき。まだ早朝暗いうちに宿を出ていくのに朝食をお弁当にしてくれた。それがなかなかのモノであったと記憶が甦ってきた。そうだった、どっしりとした風格を感じさせる装いの老舗旅館だ。今回そこは、大型連休もあってか「満杯」であった。

 想えば、「ご報告」を書き終えてひとまず終わった「ぶらり遍路の旅」は、こうしてまだ、続いていると言えるのかも知れない。

2022年5月27日金曜日

生い茂る緑、穏やかな夏の到来

 昨日(5/26)、北本自然観察公園に行った。師匠が来週の植物案内をする下見のお供。晴れ、行くときの気温は24℃。naviの案内に任せて、いつもと違う道を辿った。予想していたルート(新しくできた上尾道路)よりもさらに荒川寄りの道へ踏み込む。あとで気づいたのだが、新しくできた道を私の車のnaviは認知していない。ぐるりと回り込んで、結局同じ道路に出た。バカみたい。17号国道を走った方が20分は早く着いたかなと思った。

 人影は多くない。入口の芦原からオオヨシキリの声が迎える。鳥友からサンコウチョウがいたよと知らせがあったが、師匠は全く鳥には関心を払わない。ただ歩きながら、「あ、これ、キビタキの声」と私に伝える。ホトトギスも声を立て、「一昨日カッコウを軽井沢で聞いた」と師匠はご満悦。ツツドリは? ジュウイチは? と私は混ぜ返す。コッ・コッ・コッ・コッ・コッとドラムを叩くような声がする。木立が茂る湿地の上を覗くと、薄茶色の躰がみえる。クイナだと、最初思った。双眼鏡を覗くと、躰に白い斑点があり、クイナよりもどっしりとしている。コジュケイよと師匠が言う。それで想い出した。お遍路の旅で一番よく声を聞いたのが、このコジュケイだった。民家の近くが好ましい棲家らしく、チョットコイ、チョットコイと鳴いた最後に、コッ・コッ・コッと尾を引くように始末の声を立てていたっけ。

 自然公園の植物はうっそうと生い茂っている。湿地も萱や葦が背を伸ばし、水面がみえない。ときどきみえる水面はちょっと脂ぎって光る。これって、分解が進んでいない泥炭層の尾瀬みたいだが、たぶん、違うんだろうなとおもう。

「よく見ると、水の中にニホナカガエルの脚の生えたオタマジャクシやミナミメダカの姿」とセンターのガイドにあった。探してみるが、一匹もみえない。

 師匠は花の終わったスミレをチェックしている。ヒメスミレ、アオイスミレ、ツボスミレ、タチツボスミレ、コスミレと葉を見て指さす。電動草刈り機で草原を切り払う作業が行われている。スミレも首先をちょん切られている。でも根茎が残るから来年の開花には影響ないらしい。5年ほど前に倒れた江戸彼岸桜の倒木から生えて花を咲かせていた桜が、今年はとうとう花も付けなくなったという。あ、これって、老衰と思った。

 クララが小さな白い花を連なるように下向きに咲かせて楚々としている。イボタの木が固まるように花を付け、すっくと立っている。芦原に白っぽい緑の穂を着けたクサヨシが広がって緑の中に涼しい風を通している。イチヤガラの花が車の輪っかのように茎の先に茶色に咲いている。師匠に言われて触ってみると、その茎がくっきりと三角形になっているのが、面白い。へえ、いろんな形があるんだ。ヤブマオウとメヤブマオウの葉の末端の形が違うってことも、聞くとなるほどと分かる。

 ウグイスカグラが、たくさんの赤い実を付けている。師匠が食べられるよというので、一つ取って口に入れた。水っぽい甘さが口中に広がる。おいしくはない。ガマズミも花が実に変わりつつある。ナツボウズという草が、いかにもその名にふさわしい丸っこい実を一つ付けて、他の草木の間に身を隠していた。あっ、オオシマザクラだと、下を向いて歩いていた師匠が言う。サクランボの実が落ちて踏み潰されているのを見たからだ。桑の実もたくさん落ちて園路を汚している。そういえば、少しばかり柳絮が風にながれ、園路には白い粉を撒いたように落ち、雨に濡れて、やはり道を汚している。

 木道の上に、体長の二倍ほども尾の長いカナヘビがいる。日差しを愉しんでいたのであろうか、私たちの足音に驚いたように、躰をくねくねと揺すりながら走って姿を消した。

 子ども公園の方では、流れる水につかって泳ぐように遊んでいる3歳児前後の子どもたちの声が響く。小さなテントを張り、もっと幼い弟妹を寝かせているのだろうママたちの姿も、緑に包まれて日差しに揺れる。ああ、緑陰って、こういうのをいうんだ。久々に穏やかな夏の到来を感じた。

2022年5月26日木曜日

オニが暴れる

 昨日の《「人が生まれるとき鬼も生まれる」と、内藤雅之が語ったことがあった》という言葉が、わが夢の中で暴れ回っている。まさしくブラウン運動。

「ヒトが生まれるときオニも生まれる」。ヒトは人の形をしているが、オニは姿が見えないが、ヒトが生きるエネルギー源、活力の元。ヒトは「オニを飼いならす」ことによって成長して人となる。飼いならさないと鬼になる。その途上における心裡の葛藤を、何時であったかTVの画面で口にした若者がいた。

「なぜ人を殺してはいけないんですか?」。

 その討論番組に出演していた「有識者」たちは一瞬絶句し、その後にそういう問いを投げかけること自体がモンダイという風に反駁した。その後しばらく雑誌などで、作家や学者や映画監督や有名人たちがその応えを口にしたが、「わたし」の腑に落ちる言葉はなかった。だが、青山文平の作品の主人公の上司が、見事に応じていると思った。

 かの若者は「鬼を飼いならす」のに手間取っていた。そう考えると、彼の疑問も腑に落ちるし、その後に続いた識者の応答が、なぜ応えになっていなかったのかも分かるように思った。識者は善悪のモンダイと考えて応答していたのだ。

 17世紀の初期に編纂された『日葡辞書』によるとオニは「悪魔。または、悪魔のようにみえる恐ろしい形相」とある。善悪二元論の典型的なとらえ方であり、「形相」にまでいい及ぶのはいかにも実体的な世界観が表している。

 だが大野晋によるとそれより古い中古の時代のオニがとらえられている。

《オニを表す漢字は「鬼(き)」。中国では死者の霊。「万葉集」ではモノ(亡霊・怨霊の意の上代語)と訓み、マ(魔=悪鬼の意の漢語)とも訓む。「和名抄」には鬼が物に隠れて姿かたちがみえないことから「隠(おん)」のなまったオニと称した》

 と古来のヨミを記したあと、

《『名義抄』では「神」に「鬼ナリ」と注し、「カミ・オニ・タマシヒ」の訓を記し、「鬼」には「オニ」、「邪鬼」には「アシキモノ」、「魔」には「俗ニ云ハク、マ・オニ・ココメ(鬼女)・タマシヒ」とある。カミ(神)は天地・海山・草木・鳥獣などの自然物、風雨など自然現象の一つ一つ、また家とか門などの個々の万物に備わった霊的存在で、形は見えず、恐ろしい力を持つとする。》

 と記し、善悪二元論に見舞われる前の、中動態的な用法に注目した。そしてさらに、

《また、人の命を支配するので、人は神に捧げ物をして、その恵みを受けようとした》

 と、人が鬼・神と共に生きようとしたことを記している。

 つまり大野晋の記すこの時代以降に、鬼と神が善と悪とに別たれ、それと共に人の身の裡から悪しきものとしてのオニを排除する傾きが生まれ、人はケガレを忌み嫌うこととして、身の裡から追い出そうとしたのであろう。現代に生きる「わたし」たちは、この善悪二元論にとらわれており、そうすることによって「オニ」が悪しきもの、「カミ」が善きものとして、双方共に単純化され、わが身の裡に宿るタマシヒの深さが失われていったと感じられる。それは同時に、生きるエネルギーの源泉に、善きも悪しきも共々に雑居して、それらを「飼いならす」ことが成長することとみなすというヒトの内面の複雑さと、それが作動するメカニズムの重層的な奥深さも失われていったと思われる。

 鬼と神とが一体であった頃の今を生きる此岸を見る中動態的視線は、まさしく「照照と考える」のでなければ、みえるものがみえないことを、身を以て日常毎として体現していた。それが善悪二元論的に分節されるとともに、みえるものしか見えない。みたくないものはみないというクセを身に刻むようになってきた。それが現在では無いのか。そう教えているように思える。

 オニが暴れる。カミも暴れる。暴れるソレをわが身のこととして取り込むかどうかは、「飼い慣らせるか否か」にかかっている。そう考えると、わが身そのものが動態的に変化し推移し、しかもその主体は「わたし」そのものという実感も伴ってくる。フェイクもヘイトも、戦争も平和も、みな共々にわが身の実感においてとらえ、理解し、心の総合力によって統一する。これこそが「飼いならす」こと。そう思って、わが身の「確かさ」を吟味しながら、日々を送る。これだ、これだ。そう思って、目が覚めた。

2022年5月25日水曜日

胸裏に湧き起こるブラウン運動

 青山文平『泳ぐ者』(新潮社、2021年)を読んでいる。江戸の徒目付の話し。事件(コト)が起これば、その犯人を捜し出しとらえるのが主たる仕事であるが、この、徒目付はコトの因にまで踏み込んで探り出すことを担っているという設定。つまり、法的な始末を付けるという公の役割を越えて、なぜそのコトが起こったのかに、踏み込む。そこに青山文平の語り口が差し挟まれて、お噺は展開する。その語りを聞いているうちに、ふと(私にとっては)般若心経と同じじゃないかという感触が、湧き起こってきた。

 主人公の徒目付の上司が、主人公を高く買うわけを話している。

    「頼まれ御用で大事なのは御頭(おつむ)が切れるってことじゃねえ。てめえが薄いってことさ。科人の気持ちの奥底に紛れちまって、滲んでさ、終いにゃ己れが消えちまうって奴がいい」

 主人公はというと、自らがとらえた科人の処遇を、コトの因を識ったが故に大目に処理して貰った経緯(いきさつ)を察して、自らの出世の道を放棄して徒目付を続けているという次第も。

 あるいは、因を探る過程で己を責めながらコトを起こした妹のことを語る姉に触れて、その上司の言葉を想い出す。

    《「語って美しい者は照照と考える者だ」と言ったことがある。「人には見えねえものに光を当てて見通す。その目の明るさが様子に出るんだろう」と。》

 この「照照と考える」という言葉は美しい。私の思いの中で一つ灯りがついたように感じる。「みえねえものに光を当てて見通す」「その目の明るさ」を持つとは、どうすることだろうか。その言葉がわが胸中でブラウン運動を起こして「希望」を感じている。

 あるいは、上司はこうもいう。長いが、刺激的な人生観が浮き彫りになるから、そのまま引用する。

    《「ヒトが生まれるとき鬼にも生まれる」と、内藤雅之が語ったことがあった。「人に生まれつきゃあ鬼と棲み暮らすのは避けらんねえ。でも、人は鬼じゃねえ。鬼じゃねえ証しがこの世の中だ。鬼に世の中はつくれねえ。つくっても直ぐに壊れる。人と鬼は分けがたいが、人は鬼を馴らすことができる」。だから世の中は面白いと雅之はつづけた。「みんな健気に鬼を飼いならしてさ。そいつが世の中の脈になるんだ。世の中が生きてくってことさ。ちゃんと顔つきを持ってな。鬼との突き合いがなきゃあ、世の中のっぺらぼうになっちまう」》

  別様に言えば、「わたし」の知らない世界から響いてくる言葉の波。そうか、般若心経と同じか、とまずは思う。青野文平は江戸時代に場を託して物語っているが、私の知らない世界、つまり彼岸から言葉を繰り出して送ってくる。しかも、般若心経と違って、彼岸を遠近法的消失点において、現世の方から語り出している。ビリビリとわが身に響き、本から目を離してもその余韻がわが身を揺さぶっているのが、わかる。

 もちろん般若心経の震源は彼岸に置かれてあり、菩薩にある。マクロに響いてくる波を、ミクロの私がそのまま響き返すってことはあり得ない。だから青山文平の言葉も、同じ平地に立って受け止めているわけではなくて、立っている地平の違いを見極めながら、どう受け止めたら良いか考えている。でも、その言葉に身に響くものを感じるのは、「わたし」の世界と接点を持っているってことだ。

「鬼に世の中はつくれねえ」という言葉が脳裏に思い浮かばせたのはプーチン。だが青野文平は、それよりももっと深いところの「人の世」を視界にとどめているように感じる。「(鬼を飼いならしてさ)そいつが世の中の脈になる」。そうだ、この脈がわが身の裡を走り回っているブラウン運動のタネだ。とするとわが身が感じている「鬼」とは何か。「飼いならす」とは何か。それを面白がっている「わたし」の身に堆積している「人の世の文化の堆積」とは何か。それらの問いが、止めどもなく湧き起こって、胸裏を揺さぶり続ける。

 青野文平は、一つ鮮烈なイメージを提示している。

    《まだ幼子の頃……蛹を割いたことがある。幼子はものを識らぬ。だから、酷い。青虫が蛹になって蝶になるのだから、蛹の殻を外せば蝶のなりかけが居るはずと思い込んだ。けれど、外れた。蛹の中に見たのは形のないどろどろとした液だけだった。青虫は殻の中で己を解き、いったんドロドロになってから蝶になっていくのだった》

 そうなんだ。主人公の上司の言葉が揺さぶり、わが身の裡で走り回っているブラウン運動の「なにか」は、この蛹の中のどろどろとした液に過ぎない。それを、先ずは感性にとどめて身の裡に起ち上げ、それを言葉にして繰り出す。そこまでの成り行きを、いま「わたし」は辿っている。果たして、感性にとどめることができるのか、さらにそれを言葉にすることができるのか。身の揺さぶりを愉しみながら、すでに世の中を通り過ぎてきた老爺が「鬼を飼いならそう」としている。

 そう思うと、いや、まだまだくたばるわけにはいかないなあと思ったりする。

2022年5月24日火曜日

「わたし」のハレとケ

 お遍路から戻ってきて、2週間、「ご報告」を書き上げ、お遍路前の日常が戻ってきて、もう一度「お遍路」というハレとそれまでのケとがどう違うか、何処が違うか考えてみました。「ご報告」に記したことと一部重なりますが、ご容赦ください。

                                      *

(1)日々、身を通過することを書き記すという「おしゃべり」ができず、身の裡に堆積しつつ雲散霧消していくコトゴトが、なにがしかの鬱屈になったのを「飽きちゃった」と感じたのだと振り返っている。これまでも1週間程度の旅のときには、帰ってきてから書き留めることで身に吹き溜まることはなかった。とすると、旅のかたちを考えなければならない。1週間程度で区切りを付けるか、モバイルをつかって日々の印象や違和感を書き留め、その都度ブログにアップすることで(おしゃべりの)憂さ晴らしをしながら歩き続けるか。

(2)1週間程度の区切りを付ける旅は、考えてみると、1週間という期間のモンダイではないと思う。四国のお遍路はハレとケが交錯する毎日を歩いている。遍路道が山や谷、海辺ばかりを歩くのであれば、(私にとっては)ずうっとハレを維持できたかも知れない。だがすぐに、国道や県道、車道に出る。コンビニもあれば郵便局もある。どこそこは25㌔ほど自販機がありませんよと教えてくれたとき、えっ? 何でそれがモンダイと思った。山歩きのときにその日の水を必ず背負って出発する私にとって、自販機は目に入ったことがないからだ。つまりお遍路では、ハレとケがパッチワークのように継ぎ接ぎになってわが身を通過する。そのときどきに感じる印象や気になることや違和感が、なんであるかを腑に落とすことなく通過させて雲散霧消させている。それが吹き溜まったと思われる。ハレとケをきっちりと区別することのできる旅にするか、交錯するハレとケの、日々身の裡を通過する感触をその都度きちんと書き留める作法を備えるか。そのどちらかのかたちにしなければ、再び37番札所の先へ足を向けても、たぶん2週間ほどで「飽きちゃう」に違いない。

(3)ハレとケに区切りのついた旅となると、出発前にコースや泊地を設定したり、あるいはパック旅行に乗っかったりする旅となる。それはそれできっちり区切りがついて、それなりに面白いと思うが、「お遍路」の面白さは、すべてを成り行きに任せ、しかもその都度自前でコースや泊地を決める作法があってこその「同行二人」にあるんじゃないかと思う。ハレとケを往き来することでわが身の来し方と現在、お大師さん(あるいはもう一人の「わたし」)と同行しているという軽い自省的緊張感が保たれる。それがなかったら、「おへんろ」は「遍路」に向かわない。ということは、ハレとケの入り交じった旅に私は、まだ馴染んでいないということか。つまり私の旅感覚そのものを見直して見よということかもしれない。

(4)つまりこうも言えようか。ハレとケが入り交じる旅、しかもその土地土地、そのときどきの感懐を綴るおしゃべりができるとなると、いま毎日2時間程度の時間を取ってPCに向かっている時間を取らなければならない。とすると、午前十時のチェックアウトで宿を出て6時間程度歩く。15㌔から25㌔か。疲れ具合からすると最大20㌔を目安にすると、次の宿に着くのが4時頃になる。うん、ちょうど良い。モバイルの重さが加わるくらいなら、そう負担にはなるまい。

(5)1日の歩行を最大20㌔とすると、じつは、ただ単に歩き方だけでなく、旅のかたちにまで変更を余儀なくされるような気がする。ひたすら歩く。それが私の歩き方であった。山もそう、町でもそう、日々の散歩ですら、ひたすら歩くだけのことを得意技としてきた。振り返って、そう思う。たぶんこれは、私の気性に起因すると思うので、「ひたすら」を「ぶらりぶらり」に変更して、のんびり、その場を味わいながら歩くというのは、そう簡単にできることではないと思います。だが、それをせよと八十を越える身が要請しているのかも知れません。そういう端境に立っているってことを、今度のお遍路は教えています。も少し子細に見ると、常と違うことに立ち止まって言葉を交わし、あれこれ話を聞くというよりも、むしろ常日頃親しんでいるのと同じことに目を向けて、そこに新しい発見をするようなミクロへの興味関心の向け方を試みてごらんと示唆しているように感じます。逆に言うと、ケをハレに転じる視線こそが、身の裡側から「せかい」への関心を保つ秘訣だよというわけですね。でもそんなことって、できるだろうか。


 ま、こうやってあれこれ思案しているのが、「わたし」のクセ、身についたおしゃべり。「色即是空、空即是色」に現世で向き合う方法は唯一つ、その都度、一つひとつのコトゴト(色)に丹念に向き合うしかありません。向き合ったからといって、それもすぐに霧消し(空となっ)てしまうわけ。その繰り返しがじつは「わたし」が体験している現実(リアル)ってことを、般若心経は(菩薩の立ち位置で)言っているのですね。

 でも、そうやって次の手を考えながら、齢八十の壁を越えて生きながらえる現世を元気に過ごそうってのが、「わたし」のやり方。

 彼岸を遠近法的消失点として、そこから此岸にいる「わたし」に視線を向けて現世を生きるというとき、これまで良く耳にした誤解は、彼岸の視線をそのまま現世に持ち込むやり方です。そういうやり方をすると、「空」ばかりが眼前に起ち上がって、「色」が消えて言ってしまいます。彼岸から見た「色即是空 空即是色」を、此岸に置いてみると、ミクロのリアルをそのように見て取りなさい、そうするとミクロの「色」や「空」を一つひとつ、現実のまなざしや振る舞いにおいてその都度、丁寧に向き合いなさいといっていると得心できます。

 逆に遠近法的消失点を抜きにしてしまうと、此岸の「色」だけが浮かび上がり、彼岸の「地獄」とか「極楽」といった価値的な有り様ばかりが目について、どこまでいっても「是空」がみえなくなる。彼岸を語る口調がじつは、此岸の迷妄や欲望や価値観を反映しているだけってことになって、つまんないではないか。そう私は受け止めています。

 なんだ理屈じゃないかと、思うかも知れません。そうじゃないんですね。身に刻んできた痕跡を通して、わが身そのものに「色即是空 空即是色」をミクロ・マクロを通観して体感してみようというのが「わたし」の手法です。理屈は、その体感のさらに向こうに起ち上がる意識世界。その理屈になる世界は、じつは古今東西の哲学者をはじめとする学者たちの識るし残した諸業績やそれを解読した方々の言説を孫引きするように参照して、わが流言飛語として身に取り入れて用いています。市井の老爺の戯言と、専門家はいうかも知れません。それでも一向にかまいません。わが流言飛語は、間違いなく、人類史的な知恵の堆積を受け継いでいると(我思う思索の航跡をながめて)、何の根拠もなく思っている次第です。

2022年5月23日月曜日

ぶらり遍路の旅(10)お遍路の意味すること

 さて、「お返路」して帰ってきてから2週間になります。やっと疲れがとれ、日常が戻ってきた感じがします。昨日も午前中3時間くらい見沼田圃を歩きました。良い季節です。

 この2週間に戻ってきた日常というのが、じつは、このブログ記事を書くことだったと、今あらためて思っています。そういう意味では、5/16、5/17、5/18に記したような感懐を私の身が欲していたのだと感じています。

 四国のお遍路をしながら、なぜお遍路をするのか、何度も繰り返すのには何があるんだろうと考えていました。歩き遍路よりも88カ所巡りの方が格段に多いことも、大型連休があったからだが、よくわかりました。車で巡る人、ツアーでやってきている人、自転車で走り抜ける人、中には軽い肩掛け程度を背負って走って経巡っている(トレイルランニングのような)姿も何人か見掛けました。寺社神仏に(と書くほど、88カ所にはすぐ傍らに神社がありました)世の人々の関心が集まっているようには思えませんが、お遍路ブームでも来ているのかと思ったほど、たくさんの参詣客を見掛けました。逆に言うと、「わたし」も結構、通俗の流行に乗っているんだなあとわが身を振り返っています。

 なぜお遍路をするのか。自問に対するひとつの自答は、歩くことが人生だからというものです。歩き遍路というのは、まるごとの自分を意識させます。衣食住が剥き出しです。ひとつひとつが身に堪えます。歩くことがわが身の内奥からの響きをピリピリと伝えてきます。

 内奥からの響きというのは、三段階に分けられると思っています。

(1)一番奥深くからのは、内臓の状態がどう移ろっているかのメッセージ。栄養源とか呼吸、血液、リンパ液や水分の循環器系が穏やかに作動しているのか悲鳴を上げそうなのか、疲れとの相関を気にしながら受け止めています。ことに歳をとってから、そのメッセージを受けとるのが鈍感になっています。疲れというのは恢復するときに感じることなんだと思ったほど。恢復しないから、感じ取ることもできないのです。

(2)それよりも少し浅いところからのメッセージは、筋肉や骨、神経あるいは内臓脂肪などの様子です。若いお遍路さんは足が攣るとか筋肉痛だと夕方に騒いでいますが、年寄りは平気です。これもまた、恢復するときに身の感じている齟齬が表出するのだと思うほど、感受性が鈍っているからですね。恢復しないまま溜まった疲れは、もっと奥底の、歯茎が痛み始めたり、気管支が腫れてきたり、躰が浮腫んできたりする「症状」に現れるようになります。

(3)身体の負荷が過重であるのを「痛い」とか感じるのは若い人。「ああ、疲れたな」と感じ取るのが年寄りには精一杯。つまり、(1)(2)のメッセージを受信して総合的に「身の感触」として受けとって後に、お遍路ペースを緩やかにするとか、休養日を入れるといった「意識」へと伝わってくる、と思うようになりました。

 上記のうちの(1)は、この歳までの長年のすべての暮らし方が堆積してきたことの現れです。今更どうしようもないことが多いのですが、逆に大きなスパンでわが身を振り返ることになります。(2)は、姿勢を正すとか筋肉を鍛えるとか骨やバランスのトレーニングをするというふうに、わりと短期間にある程度修復可能な要素が残っていますが、でもそれは長年の生活習慣に組み込んできたことがベースになっていますから、これもまた、わが人生を振り返って鏡に映すようなことと言えるかも知れません。(3)がわが身の統合参謀本部。内臓や筋肉が伝えることが心に感じ取れ、意識に上るようになります。ここが鈍くなることで、結局疲れ切ってオールアウトになるまで行ってしまう。いやさらに先へ逝ってしまうことにもなりかねません。

 上記のことは、般若心経を詠んでいても浮かんできます。

 《無受想行識 無眼耳鼻舌心意 無色声香味触法》

  身が感受しあれこれ考え行うことは無いも同然と言っているように見えますが、菩薩の域に達すれば・・・という「般若心経」が位置付いている発信地点だからこそ言えること。そう考えると、まさしく今現世で右往左往している「わたし」にとっては、《受想行識 眼耳鼻舌心意 色声香味触法》という感官と意識と行動と言葉の世界が《無》になるまでは「わがもの、わがこと」として、わが人生と同行二人しているとみなければなりません。

「般若心経」を唱えるのは、彼岸に身を置いて現世のわが身を照らし出すことにほかなりません。そう簡単に菩薩になってしまっては、二千五百年余の仏法の径庭すらも揮発してしまいます。彼岸に達するまでは、《受想行識 眼耳鼻舌心意 色声香味触法》がどう「わが身の裡」で形づくられ、如何様に移ろってきて八十年、今まさに彼岸に渡ろうかというほど《無》に近くなっているなあと、深く感じたのではありました。

 おっと、話が逸れそうだ。元に戻そう。

 お遍路とは、歩くことが照らしだし(心意に)もたらす「わが人生」そのものです。ただただ坦々と歩く。内蔵の奥底からの声も、身や骨のからの響きも、暮らし方も含めて、ああだったこうだったと振り返るコトゴトも、今更どうしようもなく、そうだったねとわが身に問います。でもそのときどきの成り行きを思い返し見ても致し方なかったと根源からの応答が続きます。その応答の基点が「般若心経」だと思ったのです。

 これは、彼岸を基点として此岸の人生を振り返る作法。此岸である現世から表現すると、遠近法的消失点を見定めておいて、現世の景観を描き表す方法といって良いように思います。それを実体験できるのがお遍路なんだと。

 ところが「わたし」の場合、わが身に起こる《受想行識 眼耳鼻舌心意 色声香味触法》の、一つひとつのことを、その都度書き留めておかなければどこかへ消えていってしまう気性があります。いや簡単に言うと、すぐにどうでも良くなって忘れてしまう。その自分の弱さを補うために、ここ15年近く、ブログを書いてきたのですね。もっと簡単に言うと、書くおしゃべりです。それを生活習慣にしていました。

 そのため、ただただ歩き、溜まる疲労と比例するように身の裡に溜まる様々な感懐がどんよりと重くなり、疲労が歯茎の痛みや気管支炎となって現れるように、溜まる感懐が何やら分からぬままに「飽きちゃった」という感懐として現れてきました。それが、第37番札所岩本寺の窪川辺りであったというわけです。

 ついでにちょっと気になったことを付け加えておきます。

 38番以降をつづけるの? と帰ってきてから何人かの人に聞かれました。四国のお遍路は88番札所を終わったら、1番札所の霊山寺にお参りして「結願」となるのだそうです。結願すると、高野山に参ってお大師さんにご報告するという作法で「完結」すると聞きました。

 でも四国のお遍路を何十回と繰り返すと聞いて思い浮かべたのは「永劫回帰」。そう考えると、まさしく人生そのもの。ニーチェが言うように「飽きもせず」繰り返し積み重ねる。その動態的なサイクルから離脱しようと釈迦もニーチェも思案して「解脱」とか「超人」とかにたどり着いたのでしょうが、わが身の感じたところでは、動態的なサイクルをしっかりと感じ続け、対象として見つめ続けることこそが、「飽きない」サイクルの過ごし方ではないか。そう思えてくるのです。

 もちろん、釈迦やニーチェのように偉い存在としてではありません。市井の老人が、わが人生を振り返り、現世において書き留めておく感懐にすぎません。それがクセとなり、わが生きるエネルギー源となっているのだと、感じています。

 この先、あらためてお遍路を続けるかどうか。「飽きない」お遍路の仕方を、まだわが身が悲鳴を上げないうちに思いつければ、また38番札所から歩き始めるかも知れませんね。(おわり)

2022年5月22日日曜日

ぶらり遍路の旅(9)諸々の断片(d)

(*7)備えと成り行き

 お遍路道で一番目にしたのが、標高と津波避難所への案内看板。「標高3・5m」とか「8m」と「避難場所↔」と各所にあった。室戸阿南海岸も土佐湾も、南海地震が来れば大津波が直に襲ってくると想定されている。それも30年以内に起こると予告されると、神経質に対応しなくてはいられない。たぶん東日本大震災以降につくったと思うが、避難高台というのもあった。だがどう見てもコンクリートの3階程度。屋上に上がっても10㍍余。大丈夫だろうか。

 海と道路との間にはたいてい高さが2~4㍍の堤防があった。堤防の脇には一段低い側道が設えられていて、そこへ上がれば海はみえる。室戸岬の先端に近いところに、弘法大師が修行をしたという海洞があった。かつては海辺だったところにいまは国道が走っている。そこからみえるのは海と空だけだったから空海と名付けたと謂れが記されていたが、今みえるのは空と堤防。これじゃあ「空塊」だな。

 一段高い堤防は土佐湾に面する安芸市に入る辺りから。ここから高知市を外れる西側まで広大な平地が広がっているせいか、堤防は延々と続いていた。堤防の側道を歩くと海がみえるから側道に乗って気分良く進んでいたら、いつしか山の方へ寄っている次のお寺さんへの遍路道とどんどん外れていたことがあった。こりゃあいかんと堤防を降りて北へ屈曲する国道へ向かう。ここを通って良いのかと思うような畦道を通り抜け、川筋の堤防を降りて田の向こうに見える国分寺へ向かったこともあった。

 話を戻そう。標高表示と津波避難場所への案内をみて、でもいま南海地震が起こったら何処へ逃げるかを考えたとき、室戸阿南海岸を南西へ向かっているときは、「案内表示」以外に逃げ場がない。海に迫る山体は急峻で木に摑まっても這っても上れるような傾斜ではない。昔からの作業道のように階段を設えた避難経路が唯一の逃げ道。車は捨てるほかない。高知市から土佐市を抜け須崎へと通じる海沿いは、河口も合わせ屈曲した入り江をたくさん抱えている。山の辺に沿うように走る車道は入り江を跨ぐ1㌔を越える大橋でつながっている。

 ここで大地震となったらどうしようもないなあと思いながら、一切皆空と、ふと言葉が浮かぶ。そうなんだ。思い悩むより、そうなったらなったときのこと、致し方ないときは致し方ない。いい加減だなあと謂われそうだが、そうやって運命だとか宿命だと人生を受け容れてのほほんと生きてきた。自然と一体になるってそういうことなんだ。

 そう振り返ってみると本当に幸運に恵まれていたと感じる。あれもそう、これもそう。たくさんあった。そうだよねえ、いまさらここで南海大地震があっても、80年近く幸運に恵まれてきたんだもの、一度くらい言葉にならないほどの災厄に出くわしても、恨みっこなしよと、もう一人の「わたし」が呟いているのが聞こえる。ミクロのつぶやきだが、これってマクロの施策を考える基点とどうつながるだろうと、また別の思いが浮かび上がる。

 そうだそのミクロの人生を感謝するのが私の今回の旅ではなかったのか。これがマクロとつながるとき「お遍路」になるのかなと、歩きながら考える旅でありました。

2022年5月21日土曜日

ぶらり遍路の旅(8)諸々の断片(c)

(*6)季節・気候

 17年前は夜行バスで徳島へ行ったが、もうそんな元気はない。新幹線で岡山へ行き、瀬戸大橋を渡って高松を経て徳島、そして牟岐線の立江駅で降りる。ぐるりと回り込んだ。

 埼玉を出た日は雨模様。季節が少し戻ったように寒くさえ感じた。富士山も雲の中。4月初めには雪を見せていた伊吹山も雲に隠れていた。

 だが、瀬戸大橋を渡るときは日差しがさし、海に浮かぶ釣り船がいかにものたりのたりの風情。四国の田圃はすでに田植えを終え、でも、田の隣には二毛作の青々とした麦が背を伸ばしている。そうだったと、昔を想い出す。立江の田畑はしかし、田植えを終えたところもあれば、いま水を張り代掻きをしているところもある。水路の水はたっぷりと流れている。気候が暖かいところは、こうして農作業にも、それぞれの家の事情が反映されて自在になるんだと感じた。

 何より驚いたのは、標高500㍍ほどの鶴林寺でも太龍寺でも、まだ4月下旬に入ったばかりというのにシャクナゲが咲いていたこと。太龍寺のシャクナゲの一部はすでに萎れ始めているのもあった。ツツジはいうまでもない。瀬戸の海を見てのたりと思ったときは、海のない埼玉人だからかと思わないでもなかったが、この花を見ると温暖な四国との気候の違いを思わないわけにはいかない。そのおかげでお遍路白衣の下はノースリーブの網シャツ一枚で過ごすことができた。

 四国が紀州に突き出している一番東端・蒲生田岬から室戸岬への「室戸阿南海岸」(最短)100㌔余と室戸岬から窪川までの広角に大きく開いた「土佐湾」(最短)150㌔を歩くとき、常に日差しは東南の左から指してくる。はじめは山道だけにつかったが、6日目当たりからはほぼいつも金剛杖代わりにストックをついて、西へ西へと歩いた。あとで気づいたのだが、左手の甲が日焼けして焦げ茶になっている。何よりその手の甲を手首まで伸ばしてみると、折り曲げて皺に隠れていたところが肌色っぽく残り、まるで褶曲した地層のようにまだら模様を見せる。手甲脚絆をした昔日の装束の合理性がわかる。

 土佐湾沿いを歩くと柑橘類の栽培が目に止まる。広い畑に背の丈2㍍足らずの樹木が育っている。その間に等間隔に柱を立てて白い紗を張る作業をしている数人の人がみえる。小夏という、この季節に実を成す甘い小粒の蜜柑がいま人気で、その増産を企図しているそうだ。紗を張るのはハウス栽培と呼んでいる。花を付けたときの受粉を人為的に行って種なしの小夏をつくる虫除けの紗のようだ(それだけではあるまいが)。ハウスと違い露地物の小夏の収穫をしているところにも出遭った。今が旬だという。「食べてごらん」と2つ貰った。表の厚皮を取って内皮ごと実を食べる。こちらはときどき種がある。「そうねハウスものに比べると少し酸味があるかな」と畑仕事をしていたアラフィフの女性は笑う。今年は花を付ける時期に雨が多かったから実りが少ないともいう。ハウスものが好まれて、露地物の最高値からハウスものの値が付き始め、倍くらいの値段になって売り出されている。

 いま咲いている柑橘類の花に、やわらかいポンポンを軽くあてがって何やら作業をしているアラフォーの女性もいた。立ち止まって作業を見ていると振り返って、「あ、これ、文旦。受粉させてるの」という。虫が少なくなっているというよりも、人為的な受粉で均等に実がなるようにしているそうだ。彼女が面白い話をしてくれた。受粉につかう雄しべの花粉は、じつは小夏のものだという。小夏の花粉を2月頃にとっておいて、こうして文旦に受粉させる。文旦に収穫は初冬の12月頃だけど、もっと甘くなるのだそうだ。異種交配ですねというと、同じ柑橘類だからねと頷きながら笑う。あれこれ、そういう工夫をしてるんだ、この人たちは。

 じつは「小夏ちゃん」の地方発送をしているところを調べてきてくれと、お遍路前にカミサンに頼まれていた。これまで、高知の山奥に住む姉がその土地の人に頼んで発送してくれていたのだが、義兄が躰を痛めて長期に入院したことがきっかけで鬱になり、「ちょっとニンチが入ったかな」と一緒に暮らす甥っ子が伝えてきた。もう、これまでのように頼むわけにはいかないというわけ。

 安芸市の国道沿いで青果店を営む店を見つけた。アラフォーの女将が「私に電話するように言って」と元気な返事をくれた。また、窪川の札所の近くでも同じように地方発送していますという果物屋の連絡先を貰い、こちらはその店にあった露地物を一箱、カミサン宛てに送った。その露地物が「今年はできが悪い」といっていたとおり、酸味が少し強く、種がたくさん入っていた。カミサンはすぐに安芸市の青果店に電話をして、ハウスものと露地物の味の違いや出来具合を聞いて送り先をファックスしていた。

 気候の暖かさとそこに住む人たちの気性と関係の大らかさとに関係あるかどうかは説明のしようがないが、高知県の人たちのさっぱりとした気性とか、遍路宿の「チェックインは4時から」というとき、ほぼその時間まで受付をしないということとか、わりと思ったことを口にしてその通りに伝わっていると見ている感触は、思いの丈を忖度して遣り取りをする京都渡りの言葉の用法と違って、きっぱりとして気持ちが良い。そう思うのは関東気質なのだろうか、それとも四国・中国育ちが関東へ来て身につけた気質なのだろうか。私の感性にフィットする。これって、ひょっとすると身を置いた四国の気候に、わが躰に刻んだ無意識の「ふるさと回帰」が反応しているのかもしれないと、なんとなく嬉しくなっているのだ。

2022年5月20日金曜日

ぶらり遍路の旅(7)諸々の断片(b)

(*5)生き心地が良い関係への視線

 岡真弓の著書に触発された《「生き心地が良い」とはどういうことか》を読んでみると、日頃私が綴るよしなしごとの神髄が足下にあったことがわかります。でも「生き心地が良い」関係を「おへんろ」というかたちで受け容れ、軽々とこなすように日常に取り入れている徳島や高知の人たちの振る舞いは、なかなか大したものです。

 でもその関係が紙一重であることも忘れてはなりません。自殺率が全国平均の3分の1という(旧)海部町と、その隣町の自殺率は全国平均と変わらなかったという統計的事実は、簡単に概念化してはならないことを意味しています。その町の気風(エートスと岡檀は呼んでいますが)は、どんな人々がどのように往き来して関わり合ってきたかという微細な関わり方によって出来上がってきたものと言えます。大坂夏の陣で焼き払われ必要になった材木の切り出しがきっかけと岡檀は海部町の人の往来を記しています。

 そういう人たちの往来が(そのときの)成り行きによって「生き心地の良い」関係を紡ぐという似たようなことを、私は今住んでいる首都圏の団地の住まいに感じています。似たようなことというのは、「病、市に出す」という点だけがまだまだ届かないところにあります。たとえばこの団地でコロナウィルスの感染者が発生したときにそれを住民に知らせるかが話題になったとき、団地理事会は内密にすることを選びました。そこにはまだ、見知らぬ他者を信頼する(旧)海部町的気風が行き渡っていない(というか、見知らぬ人を信用するなという気風さえ常識化している)ことが現れています。

 それでも、戦後の経済的な豊潤と上昇によって人々の往来が盛んになり、謂わば西欧社会的な他者が市民として共に暮らすようになることによって、多様な他者が協同して生活する社会関係を築いていかねばならない。そういう社会意識を共有できる条件は出来上がっています。そのとき、どうやったら(旧)海部町の人たちのような「生き心地の良い」関係を紡ぐことができるのか、ひとつひとつの社会ネットワークで考えていく必要があると思います。

 岡檀の著書の最後に記されていたこと、「自殺はそんなに悪いことですか」という訴えは、「病、市に出す」というセンスが行き渡っていないことと同じ社会ベースで生じています。「病」を共有して「あんた鬱になっとんのとちがう?」と声を掛けるような開放性があれば、それでも自殺した人を「悪くいう」ことは起こらないと思うからだ。人生の運不運はつきまとう。それは、不運な人の所為ではない。そういった感性までかかわってくる。つまり、心を開く関係が築けるかどうかは、関わりの緩急を人と場に応じて受け止めていく、微細なことへの心配りを必要としているのです。

 お遍路として通過するだけの町ではあったが、そういう気風を感じることができたのは、民宿大砂とか民宿椎名のお接待があったからだ。もちろんそればかりではない。道に迷ったときに声を掛け、ときにはちゃんと行けたかを見守るように(ひょいと顔を出して)「あ、さっきの人やな」と挨拶をする自転車の年寄りの振る舞いは、なんともやわらかい関係がしみ出してくるようであった。

2022年5月19日木曜日

ぶらり遍路の旅(6)諸々の断片(a)

(1)隠れた自己承認欲求

 遍路道の所々が山道になっていると記した。一日中そういう山道を歩くこともあれば、ほんの2時間ほどとか、遍路参詣登山口からお寺さんまでの1時間足らずのところもあった。振り返って考えて見ると、明らかに私は、山道に心惹かれていた。荷が重くても、山歩きならこうやってゆっくりと歩くのが基本、ここでへこたれて何が登山だと思うと、自ずから力が湧いてくるように感じていた。

 ところが、国道や県道歩きが長く続くと、それだけで気力が削がれていくように感じるのは、なぜか。google-mapの「経路案内」が優れているのは、「歩行」をマークしておくと、本当に狭い道でも(近ければなのかどうかはわからないが)案内する。あることろでは、家屋と脇の田んぼの間の、細い畦のような草ぼうぼうの道へ入るところで「左へ0㍍」と表示が出た。これは如何に何でも間違いだろうと、20㍍先の車道までいってみたら、大きく回り込む道は、件の畦道と合流して川を越える橋へと向かっていた。なるほどgoogle-mapの「歩行」はこういう芸当をやるんだと感心したことがある。それが逆に災いして、何処へ行っても「*分遅い」と表示付きでルートは示してくれるから、ぶらりが何とも大回りになってしまうこともあったことは、すでにご報告したことである。でも、少々遠回りになっても、当初の歩行距離を1日20㌔程度にしていたから、4㌔や5㌔余計に歩いても構わない気分であった。すでに田植えの終わった水路沿いの、車の滅多に通らない田舎道は、山のアプローチ同様、好ましく感じられた。これはどうしてなのか。田舎の風景が私の子どもの頃の原体験として身に染みこんでいて、自然の溶け込んでいる感触を湛えているからなのだろうか。身が悦んでいるのを感じていた。

 なぜ山へゆくのかと問われたとき、歩いているときに瞑想状態になるのが良いからと応えてきた。無念無想というか、意識は明晰なのに足下のディテールしか目に留めていない。その状態が素敵だからと思っていたが、なぜ素敵に感じられるのか。

 その根柢にわが身に何時知らず刻んできた空間的景観の記憶が甦っているのかも知れない。つまり山へ行ったり遍路道を歩いたりすることで、わが身がいまなお経験的に積み上げてきた人類史的堆積を現実に確証し続けてくれている。そう思うようになった。

 こうも言えようか。そうやって繰り返し自己承認を求めているのかも知れない。私の心持ちが落ち着く根源に、そういう隠れた欲求があり、それに気づかないままお遍路している。そう感じたことがあった。


(2)重い荷と郵便局

 これくらいの重さで音を上げてどうすると自分に言い聞かせながら歩いたのは、4日目までであった。まず、つかわないものを捨てることにした。山と溪谷社の『四国八十八カ所05』と古い(友人から貰った)『へんろみち地図』を宿のゴミ箱に入れておいた。ついで衣類の半分ほどを帰りに立ち寄ることにしていた兄の家へ送った。洗濯ができ、ほぼ二組あれば困らない。私は山歩き同様、雨でびしょ濡れになったときのことを考え、しかも行き帰りの電車の中を考えて3組のほかに宿での内着を用意していたのだが、宿の浴衣と衣類の乾燥も含めて無用なものを送ってしまった。ザックそのものが大きいものだったから、見かけは変わらなかったが、気分も含めてずいぶん楽になった。

 これには、何処へ行っても郵便局があることがありがたかった。実際荷物ばかりでなく、手持ちの現金もそう多くは持たなかった。カード決済できるものはそうした。遍路宿は現金だろうが、持ち歩くわけにはいかない。そこで郵便局の口座を用いることにして、途中で一度貯金をおろしたが、その後の買い物などはほとんどカードで済ませることができたから、余計な心配ではあった。


(3)お遍路という共同体への組み込み方

 菅笠を被り白装束をして歩く年寄りが「おへんろ」であることは一目瞭然。それが道をうろうろしていると「*番札所は・・・」と教えてくれたと、どこかで報告した。また、山へ入るような遍路道がそのまま牧野植物園の中を通り、植物園の入口に向かっていることにも驚いた。ちょうど大型連休とぶつかる朝9時頃であったから、たくさんの人たちが入ってくるのと逆向きに歩くことになった。私の姿を見た植物園の職員がさっとやってきて、こちらへどうぞと外へと案内してくれた。もちろん料金はとらない。これも、遍路姿はこうやって受け容れられているのだと感じたあしらいであった。

 もっともこのときは、外へ出てみると、植物園の中の牧野記念館で牧野富太郎の生涯展をやっていたので、引き返して料金を支払いもう一度入園した。NHKの朝ドラで生誕160年の牧野富太郎が取り上げられることになったので、記念館でも生涯展を企画したらしい。これは面白かった。植物分類学の父といわれる牧野富太郎が、金銭に構わない大らかなというか、大雑把な性格だったとか、当時のアカデミズムの権威階梯を踏まえず自説を貫いて体系化を図ったというのは、面白い人生であったろうなと思えた。もちろん同時に、周りにいた人たちにはそう単純に喜べない迷惑な存在であったろうが、何かを成し遂げるというのは、そういう周りの迷惑に構わない無神経さがいるのかも知れないと思った。

 それと同時に、その後の植物学の成果を盛り込んで生物の99%が死滅したとする氷河期や彗星の衝突など5度の災厄を経てきた生命の歴史一覧をみると、ヒトの小ささと幸運さとが感じられ、現在の地球の危機的な状況さえも、6度目の災厄に向かっているだけのことと「一切皆空」とみえて、気が楽になる。ヒトだって、こうやって滅びていくのだと、まるで予言を見るようで、面白かった。

 ああ、そういう話しではなかった。四国において「お遍路」は見事に日常に組み込まれている。道に迷っているというのも、何処へ行くかを周囲の人たちが知っているからだ。もし菅笠もなく白衣も着ていなければ、ただの徘徊老人だとみなされたかも知れない。いやそうじゃないか。そうとすらみなされず、ほとんど存在していないウォーキング・シャドウであったかもしれない。そういう意味でも「おへんろ」は実存が承認され、四国の地に受け容れられている。ただの観光客とも違う。この受け入れのかたちが、なにかヒトの実存の確かさに通じているように感じたが、それ以上は分からない。


(4)海部の町という気風

 徳島県最後の札所から室戸岬へ向けて歩いているときに海部郡海陽町を通過した。最初の鶴風亭のご亭主が海陽町の名を口にした。その入口辺りに海部刀という日本刀の名刀がつくられていた、ぜひその資料館があるから寄って行けと奨めてくれた。そのとき「海部町」のことが記憶の底からぷかりと浮かび上がってきた。ボンヤリとした記憶であったが、そこかで社会学者が何かを調査した町というところまでは想い出した。はて何だったろう。想い出した。日本一自殺が少ない町として社会学者が調査に入ったという記録だった。

 お遍路から帰ってきてから古いブログの記録を探してみたら、2015年3月に、その記事があった。これを読み直して、お遍路全体を通して海部町の気風にひたってきたのだと感じる。お遍路を受け容れる気風には「生き心地が良い」関係をつくる人と人の向き合い方が、長年に亘って積み重ねられてきたと腑に落ちる思いがする。参考のために、再掲する

 

 ★ 「生き心地の良い」とはどういうことか(1)鷹揚な自立主義


 岡檀『生き心地の良い町――この自殺率の低さには理由がある』(講談社、2013年)を読む。こういう調査をしている社会学者がいるんだと感心した。視点もいい。平成の大合併以前の市区町村区分で自殺率を調べ、その一段と低い町の何が率の高いところと違うのかを調べている。

 全国平均の「人口十万人自殺率」は「25.2」、ところが(旧)海部町は「8.7」。自殺率の低いベスト10の8位に入る。ちなみにベスト10のほかの九つはすべて離島である。さらにまた、海部町と隣接する2町の自殺率平均値は、「26.6」と「29.7」。これは何かある、とみるのも当然な差異である。

 この三分の一という数値の差異には何かあると睨んでアンケートやインタビューを行い、あるいは地理的な立地条件を比べて、自殺の少ないワケを解析している。視点がいいとは、平成の大合併によってできた広い行政区画では決して明らかにならない地域社会のエートス(一般的規範感覚の気配)を浮き彫りにしている。それに実際、「自殺率」という統計自体が、大きな行政単位に集計されると、いわゆる「平均値」になって、海部町のような特異点が消失してしまう。そういう意味では、今でしか解析することのできなかった研究だともいえる。

 まず、研究のデータや対象を取り扱っているしかるべき役所・機関に趣旨を説いて理解してもらうとともに、援けを得ながら、どうしたらいいかを探る。その上でコミュニティに移り住み、インタビューやアンケートの面談調査を行う。通常行われる社会学アンケート調査手法の「欠点」をカバーするべく、調査担当の人たちに調査趣旨を説明するところから、すでに回収の意味が深いところに届いている。何しろ1900件に近いアンケートの回収率が2回調査の平均値で93%になる。ふつうは回収率が6割を超えれば有効と言われている。調査協力者自体が、その調査の意味を十分咀嚼していなければ、かなわない数字だ。

 だがアンケート調査はこの研究のメインではない。しばらくそこに暮らし、その土地の人たちと言葉を交わし、その立ち居振る舞いから他の地域と気配が違うことを感じとる。そうして5つの差異を剔出している(以下の記述に付した番号は引用者がつけた便宜上のもの)。


(1)いろんな人がいてもよい、いろんな人がいた方がよい

 地域のエートスが他の地域と違う、とまとめる。「赤い羽根の募金の集まりが悪い」ということに気づき、なぜかと聞いてみる。「何に使こうとるかわからんもんに寄付するより、街のお祭りに出す方がええ」ということばから、出す人は出せばいいし嫌な人は出さんでもええ、当たり前のことじゃと、人との違いを気にしない自律性を見て取っている。それはすなわち他の地域では、他の人たちは出しているのに自分が出さないのは風が悪いというエートスと対照的である。

 それはさらに、「朋輩組」の運びにも関係する。他の地域ではほとんど消滅した「若集組」(若集宿)は、かつて地域社会の通過儀礼組織であった。年寄りから、(徴兵でいった)軍隊の方が緩やかだったと評されるほど先輩格からの「しごき」などがあって、戦後ほとんど消えていった。だが海部町では「朋輩組」という年齢階梯型共同体組織として今でも残っているそうだ。「しごき」などは、「なんのこっちゃ。そりゃ野暮じゃ」と、その影も見えないという。つまり、先輩・後輩という序列が因習的な権力関係ではなく、協同的な共同関係にある。そのことを証だてる一つのアンケート調査結果がある。

 排他的傾向の度合い――①「あなたは一般的に人を信用できますか」、②「相手が見知らぬ人であっても信用できますか」という調査である。自殺率の低い海部町と【自殺率の高いA町】の比較である。

 まず、①「あなたは一般的に人を信用できますか」という問いに対して、

 [肯定]35.1【18.9】、[どちらともいえない]31.1【49.8】、[否定]33.8【31.3】とある。

  歴然たる違いだ。海部町の方が、楽天的というか能天気というか、おおらかである。

 ついで、②「相手が見知らぬ人であっても信用できますか」に対して、

 [肯定]27.0【12.8】、[どちらともいえない]28.3【42.8】、[否定]44.1【44.4】とある。

 このデータを読み取るとき、(アンケート結果を読むとき一般的に言えることだが)気をつけたいことがある。この地域にこれだけ%の人たちが散らばっているという読み方をしてはいけない。たとえば①に関して、海部町の人たちの胸中は、「35.1%が肯定」気分、「33.8%が否定」気分、「31.1%がどちらともいえない」気分と読むと、わりと地域のエートスが分かる。実体的な人数と考えると、人柄がぼやける。それほど截然とモノゴトを私たちは明快にしていないからだ。あれもこれもあり、でも1つ選ぶとすれば、まあこっちかなというふうに、回答している。つまり海部町の人たちは、「見知らぬ人」という他者を受け入れる許容度が(そうでないA地域に比べて)高いとみると分かりやすい。


(2)人物本位主義を貫く

 「地域リーダーを選ぶ際の基準」についての調査結果もある。

 二つの地域について、③「問題解決能力を重視」、④「学歴を重視」に関する肯定-否定の度合いを尋ねている。

 「ここでいう人物本位主義とは、職業上の地位や学歴、家柄や財力などにとらわれることなく、その人の問題解決能力や人柄をみて評価することを指している」と、まず岡は解説する。そうして、海部町と自発多発A地域と比較すると、以下のような違いが明らかになった。

 ③「問題解決能力を重視」について  海部町【A町】

 [肯定]76.7【67.3】、[どちらともいえない]17.9【23.6】、[否定]5.3【9.2】とある。

 ④「学歴を重視」については、

 [肯定]6.8【13.3】、[どちらともいえない]24.6【17.6】、[否定]68.6【69.1】という結果だ。

 それぞれの項目に関する両地域の差異はそれほど大きいとは思えないが、社会学的には「有意の差」だと岡は解説している。このデータも、前と同様、その地域の人の胸中で、その要素がどれほどの割合を占めているかと読み取ると、我が身と重ねて了解しやすい。

 ふだん私は、「学歴重視」の要素を権威主義と呼んでいる。有名人やブランド物、世間の評判に価値の重心を置く「権威主義」的な人はけっこう多い。それはそれで根拠もないわけではない。有名大学の卒業者は、一般に学力においては優秀なのが多い。商品を選ぶときにブランド物の方が品質の心配をする必要がないことが多い。だが地域の暮らしに必要な能力となると、学力と比例するものではないし、会社などでの地位と相関するとも限らない。所詮人柄を見極めるのが一番いいと、私も思う。

 つまり、人物本位主義的に向き合う関係と権威主義的に向き合う関係では、後者の方が関係の硬直性が高い。人物本位主義的な場合、人は変わるし変わりうることが前提にある。人と人との「かんけい」は硬直的でない方が自由である。(つづく)


★ 「生き心地の良い」とはどういうことか(2)「朋輩」という関係


(3)どうせ自分なんてと考えない

 「有能感(自己効力感)の度合い」の調査もしている。「自分のような者に政府を動かす力はない」と問うて「肯定-否定」聞いている。自殺率の低い海部町と【自殺率の高いA町】との比較である。

 [肯定]26.3【51.2】、[どちらともいえない]31.9【21.6】、「否定」41.8【27.2】

 私がもしそう問われたら、私は「肯定」するだろう。だが「政府」というのが、自分の暮らすこの小さな地域のことだとすると、「否定」すると思う。代議制民主主義という制度をどうとらえているかの違いが表出すると思うからだ。国政と地方の町村とは、明らかに違う。

 自分の属する集団を主体的に担う心づもりを問うているのであれば、むろん「否定」である。そのときに「どうせ自分なんて」と考えるのは、養老孟がいうところの「バカの壁」だ。心理学でいう「有能感(自己効力感)」というのと少しずれがあると思うが、とりあえずそれを脇に置いておこう。しかし、この両地域のずれは、どうだ。「バカの壁」が倍にもなっている。

 面白かったのは、「極道もんになった」ということばと、この項目を岡が結び付けて考察していることだ。「この地域では、働きもせずぶらぶらしている人、遊び人、怠け者のこと」を「極道者」というそうだ。それで思い出した。「極道もんの頭に最初に雨がおちる」という慣用句があると高知の山奥に育ったカミサンが話していた。私はそのとき、「極道者」をヤクザやテキヤというか、悪行を働いたり博徒のような暮らしをする人のことだと思っていた。だが、この徳島県の海部町の用法と同じだとすると、面白い。つまり、自分の暮らしを基本的に自分で切り回していこうという気概をもつか、人に頼ってたべていこうとしているかを問題にしているのだ。そういう気概をもたなくなったものを「極道もんになった」と言っている。さしずめ年金生活をしている私は、はや立派な極道もんである。自律の精神と根本においては同じである。


(4)病、市に出せ

 これは、隠さず周りに相談せよということらしい。「援助希求への抵抗感」の調査である。

「悩みを抱えたとき、誰かに相談したり助けを求めたりすることに抵抗感はある」かと質問している。やはり、海部町と【自殺率の大きいA町】の回答比率は次のようである。

 [肯定]20.2【27.0】、[どちらともいえない]17.0【25.7】、[否定]62.8【47.3】

 「悩み」というのを(自殺に結びつくので)うつ病受診率の高さを取り上げて説明している。海部町では「あんた、うつんなっとんのと違うん。はよ病院へ行て、薬もらい」と周りが気遣うし、声をかける。「どうも私はうつになってきているみたい」と相談するらしい。むろん病院に行くことにためらいはないし、うつ病と診断されたことをひた隠しに隠すこともない。ところが、自殺率の高い地域では、精神病だというと恥ずかしいし、孫子や親戚のもんに顔向けできないと考えるらしい。海部町では「あんた、うつんなっとんのと違うん」と周りが声をかけると、自殺率の高い地域で紹介をすると、どよめきが起きると記している。

 この「どよめく」感覚は、見栄を張ることにもつながる。だが、見栄が一概に悪いと言えないのは、見栄を張ってそれに見合うように自分を鍛えていくというやり方が、ひとつの方法としてあるからだ。私はそのようなやり方を好まないが、実力以上に自分を大きく見せ、ウソから出たマコトのようにして力をつけていくのも、アリだとは思う。あるいは「我慢をする」とか「できるだけ自分で何とかしようと考える」というのも(岡は後で記しているが)、傾斜の急峻な山間部の土地で暮らしている人の気性は、自ずとこのようなものになるらしい。それは、基本的に自分で成し遂げる、人の援けをあてにしないという自律の構えであろう。それはそれで大切であるが、「市に出す」ことによって人と人とのかんけいも屈託のないやわらかいものになると、言っているようである。

 隠し事をせず、自分を飾らず、腹蔵なく付き合うのは、そのような付き合いをする人の存在を承認するという意味でも、コミュニティの緊張感を緩める効果を持つ。開かれた関係には欠かせないと思うのだが、どうだろうか。


(5)ゆるやかにつながる

 隣人の「うつ」にまで気遣うというと、おせっかいが過ぎると思うであろう。ところが岡は、そういう「粘質な」印象はないという。「基本は放任主義で必要があれば過不足なく援助するというような、どちらかというと淡白なコミュニケーションの様子が窺える」とみる。

 「隣人との付き合い方」という調査結果にまとめている。やはり、海部町と【自殺率の高いA町】の比較。次の5項目それぞれについての%。

 「日常的に生活面で協力」………………16.5【44.0】

 「立ち話程度のつきあい」………………49.9【37.4】

 「あいさつ程度の最小限のつきあい」…31.3【15.9】

 「つきあいはまったくしていない」…… 2.4【2.6】

 隣人間のコミュニケーションが切れているわけではないが、「立ち話程度」「あいさつ程度」とかなりあっさりしている様子とみている。気遣いは、親密な共同体のそれのようであるが、人と人との距離はほどほどに保たれている。そこでは、人間関係が固定していない。加入も大会も自由な「朋輩組」の互助活動もある。子どもたちの放課後の遊びも、家に帰ってきてからの仲間で一緒に遊ぶこともある。出入り自由な関係が、付き合い方の柔軟さを生み出している。


★ 「生き心地の良い」とはどういうことか(3)悲しみに向き合い視界を広げる


 自殺率が低いコミュニティの特徴を岡は以下の5つにまとめた。

(1)いろんな人がいてもよい、いろんな人がいた方がよい

(2)人物本位主義を貫く

(3)どうせ自分なんてと考えない

(4)病、市に出せ

(5)ゆるやかにつながる

 これらのエートスはどのようにして生まれてきたのであろうか。岡は海部町の地理的な立地条件を歴史的に追っている。海部町というのは徳島県、四国の南西部、紀伊半島に突き出すように伸びた蒲生田岬から室戸岬まですっきりした海岸線をつくる太平洋岸のほぼ中央部に位置する。海部川の下流に開かれた港町である。川のあるせいで、江戸時代には大坂相手に木材を商って賑やかであったらしい。ことに大坂夏の陣で大坂の街が焼き払われたときには、上流域から川を通じて材木が切り出され、流通加工の拠点になったようだ。岡の説明では、そのときに海部の町に(たぶん四国各地からだろうが)多くの人がやってきて、職人として仕事に従事し住み着いたという。つまり、習わしの固着した共同体ではなく、いろんな才覚・習俗を持った人たちが寄り集って町をなしたがゆえに、ここまで記してきたコミュニティの規範感覚を培ってきたのだろうと推測している。

 5つの「自殺予防因子」とそれから派生する規範感覚を表すいろんな言葉を、岡は拾っている。

 (1)について「ああ、こういう考え方、物の見方があったのか。世の中は自分と同じ考え方の人ばかりではない。いろいろな人がいるものだ」と、多様性のもたらすカルチャーショックを吸収していると。それによる弾力性と順応性を指摘する。

  あるいは、同調的に話題が進行しているときにそこに異質な視点を投げ込んで、一方向に過度に進行することを切り替える「スウィッチャー」がいると分節する。つまり、他者への関心が不要というのではなく、関心は置くが監視はしないという「かんけい」の微妙な要点を掘り出す。

 それは「状況可変」を念頭に置いている。社会関係にせよ人間関係にせよ、不変を前提にしていると「関係」は固着する。たぶんそれは、人を概念化してとらえ、我が心中にバカの壁をつくることを意味しているといいたいようだ。つまり別の言葉にすれば、「人は変わる」と海部町の人たちは思っているということである。

 だから「やり直しのきく生き方」をしていると、「一度はこらえたれ」という「朋輩組」の事例などを取り出している。そのようにして紡がれた「かんけい」が「弱音を吐かせる」術にもなるとみる。「病、市に出せ」につながる。しかも、「援助希求」に対して言葉ではなく態度で反応することが、さらに「情報開示」の心理的負担を軽くしていると、個別的かかわりの大切さを見て取っている。

 総じて「賢い人が多い町」という町の人の言葉にも目を留める。「人の性や業を良く知る人たち」というわけである。

 岡は「自殺予防因子」を探る過程で、こうしたコミュニティの「かんけい」を拾い出したのであるが、これは同時に、家族や家庭や学校などの「かんけい」にも当てはまる在り様を示している。もちろんそれらが同質のかかわりを意味するわけではなく、コミュニティが上記のような「かんけい」を持っていれば、それに対応して変化する「かんけい」の位置取りをすることもみえてくるように思う。それが、「生き心地が良い」ことへつながっている。

 だが私が、この人は信用できると思ったのは、最後の「結びにかえて」のところで、「自殺はそれほど悪いことなんでしょうか」というある母親の問いに言葉を失ったことを率直に述べている。娘を自殺によって失った母親に対して、周りの人たちがきつく責める言葉と視線がその問いを紡ぎ出したのだ。「自殺予防因子」を探るのが岡の研究テーマではあったが、このことが転機となって「生き心地が良い」コミュニティの探求へと拓いていったと考えられる。

 人は、ひとつの哀しみに向き合い、それを深く受け止めることを通じて、一歩ずつ視界を広げていくのだと思った。(2015/3/22)

2022年5月18日水曜日

同行二人

 19番札所へまず立ち寄り、菅笠を被り「南無大師遍照金剛」と書かれた白衣を身につけ「同行二人」と記した頭陀袋を首から提げる。輪袈裟や数珠、金剛杖はもたない。信仰心がないことを隠さない、金剛杖は重すぎるから軽いストックにする。つまり我執である。

 着替えると、すこしお遍路気分になる。お大師堂に蝋燭と線香を献げ、「般若心経」を詠み上げる。暗唱するのではなく詠むのが正しいと、後の遍路宿で何度もお遍路をしている方から聞いた。私は何度詠んでも覚えることがないから、なぜかは聞かなかったが、その後ずうっとなぜだろうと考えている。暗唱するとリズムが心地よく響き、意味を考えなくなるからではないかというのが、とりあえずの私の結論。ついで本堂に行って同じように灯明と線香を献げて般若心経を詠唱する。

 そのとき、左片隅の方から訴えるような、泣くような声が聞こえてきた。本堂の両片隅にお大師さんの座像が鎮座している。その前で老婦人が泣き崩れるように声を忍びつつ振り絞っている。それはまるで、亡き人に詫びているようであり、縋っているようであり、お大師さんに訴えかけているようであった。そう言えばお釈迦さんに亡くなった我が子を呼び戻してほしいと訴え願う母親の説話があったと思い起こしていた。

 そうか、この方には「願」がある。願を掛けて八十八カ所を経巡ったときを「結願」という。こういうことが同行二人なのか。「願を掛ける」のは、「一切皆苦」という「苦」に向き合っていなければならない。それはよく分かる。そもそも社会的な施策は、人々の「苦」をどう始末するかを考えて建てられる。だから政策立案者や為政者は、基本的に人が生きる「苦」に向き合う「無知のベール」を被った地点で立案しなければならないというアメリカの哲学者の提案に、私は直感的に同意している。

 でも、私はこうした人生の悲嘆に向き合ったろうか。確かに戦中生まれ戦後育ちということは、社会的な混沌や悲嘆、貧窮を経験している。それは「苦」と呼んでもよいことだったが、いま、もう一歩根柢に降り立って振り返ってみると、「苦」というより逆に「希望」感じる。悲嘆・貧窮・混沌の中にいたからこそ、そこから暮らしを立て直し、新しい社会を再生する希望にあふれた立ち位置を感じることができていたのではないか。しかも日頃顔を合わせる同年代の人たちと共に、何を目指し何処へゆくのかを考える必要もないほど、社会的な共通感覚を抱いていた。「無知のベール」を被るも何も共通体験としてそれを知っていたとも言える。

 むしろアフター・バブルの「失われた*十年」と呼ばれるここ何十年かの方が、若い人たちにとって「苦」なのではないか。なぜ、なにをするのかさえ、一様でない。またその意味を、社会的にばかりか友人たちと共有することもできない。世の中の共通感覚さえも失われて、人一人ひとりの「本体」が確かなものとしてつかみ取れなければ、「我思う」という確信さえ確かなものとして感じられない。「わたし」って何かと自らの問いかけて茫洋呆ひとり然とするほかない苦難の中に放り込まれている。それこそが「苦」ではないか。

 この、人の世を認知する原点ともいうべき「一切皆苦」を共感することこそがお大師様との同行二人かもしれないと、立江寺の老婦人の嘆きを見て考え始めた歩きはじめたのであった。私の発心である。札所を参詣し般若心経を詠む。そうしながらどれほど般若心経の神髄を感じ取ることができるか。空海の足跡を踏み歩くのは、1200年前の空海の時代と今の社会空間がひと繋がりになっているという舞台の共通性と、その間に生じた大きな差異とを同時に感じ取りことではないのか。そう感じ取る最低限の共通性とは「歩くこと」に他ならない。空海が何を考え、どう始末しつつ、何をしてきたか。なぜそうしたのか。その土台は何であったかを、彼と共有しているのは四国お遍路という場と般若心経という言葉。それを、一寺一寺経巡り、その都度2回詠み上げながら感じ取ろうと、考えるともなく思いながら、歩き出したのではなかったか。

 じつは当初、参詣という心持ちをしていたわけではなかった。まして「願を掛ける」気心はもっていない。ただ、人生の「苦」に、周りのあれやこれやに扶けられて気づかぬままに過ごしてきたのだろうか。あるいは、これから、向き合うことになるのだろうか。もしそうなら、これまで苦に向き合わなかったことは私の全くの幸運であり、その感謝を(何か大きなもの)天に伝えるのが「わたし」のお遍路だと内心のどこかで思っていたのだ。

 今思うとこの感懐は、歳をとったからの忘却が作用して苦しかったコトゴトをほぼすっかり忘れ、いろいろなことを能天気にやり過ごすちゃらんぽらんなわが気性に起因しているのかもしれないと、もう一人の「わたし」が呟いている。ま、それはそれで構わない。お遍路と、歩きながら胸中に浮かんできたよしなしごとや、身の程に堪えるように積み重なってくる「疲れ」をもう一度撮りだし、意識的に言葉にすることが「わたし」の愉しみに他ならないと感じつつ、書き進めている。

2022年5月17日火曜日

〈動物になること〉を待ち構える

 2021-05-16のブログ記事「ご報告(第16回)  脳裏に焼きついた記憶」が、いま読んでいる国分功一郎『暇と退屈の倫理学』と見事にリンクしていると分かる。

 国分は今昔の哲学者の文献を渉猟し延々整理してきた後に次のような結論を導き出す。

《人間がその他の動物と全く同じかといえば、そういう訳でもなかった。人間は他の動物に比べ、相対的に、しかし相当に高い環世界間移動能力を持っている。そしてその事実こそ、人間であることのつらさの原因でもあった。なぜならそれは、人間が1つの環世界にひたっていることができず、容易に退屈してしまうことを意味しているからだ。》

 ここで国分が言う「退屈」は、私が「(お遍路に)飽きちゃった」ということと同じ感触を讃えている。と同時に国分は、〈動物になることの日常性〉も指摘する。

《だが、人間はその環世界間移動能力を著しく低下させる時がある。どういう時かといえば、それは、何かについて思考せざるを得なくなったときである。人は、自らが生きる世界に何かが「不法侵入」し、それが崩壊するとき、その何かについての対応を迫られ、思考し始めるのだった。人は思考の対象によってとりさらわれる。〈動物になること〉が起こっている。「なんとなく退屈だ」の声が鳴り響くことはない。》

 国分が言う「とりさらわれる」思考状態を、私は「ヒトのクセ」と呼んできた。

 国分の論脈はこうだ。

 人間の環世界を支配しているのは習慣というルールである。その環世界の崩壊と再創造は日常的に起こっている。人が思考にとりさらわれること=〈動物になること〉は「ありふれている」。それは動物としてのヒトの環世界の再創造なのだ、と。つまり、その再創造した環世界を「楽しむことは思考することにつながる」。

《人は楽しむことを知っているとき、思考に対して開かれている》

 と結論づけて、

《……楽しむためには訓練が必要なのだった。(思考を促すものを)受けとる訓練となる。人は楽しみ、楽しむことを学びながら、ものを考えることができるようになっていくのだ》

 と、365頁までの渉猟の後に記している。

 この国分の著書が面白いのは、暇と退屈に関する古今の哲学者の著作を縦横に往来し整理して行く過程そのものを読み取ってほしいから、いわば一気通貫で読み進めてほしいと冒頭に記述している。気になることはあとにまとめる註記を参照して振り返って貰いたいと述べるのは、彼自身の身の裡に堆積している(人類史的な痕跡に)問いかけながら解き明かしていく航跡を、謂わば同時体験して貰いたい。その(読書)体験こそが、じつは、思考を促すものを受けとる訓練であり、かつ「暇と退屈の倫理学」であるという実践構造を持っている。そういう著作物としては希有な構成を試みている。

 というよりお遍路にかこつけていえば、じつはそういう追走というか、併走というか、いわば一緒に追体験してみようというのが「お遍路の(お大師さんとの)同行二人」ではなかったか。そう、振り返って考えている。

 私が飽きちゃったというのは、お大師さんとの同行二人を感じ取ることがどこかで薄れ、折角場を変えて四国まで足を運んだのに、いつの間にか(私の)近代の日常世界の「暇と退屈」が露出するような「お偏路」になっていた。そういう感触を受け止めたことを「飽きちゃった」と言葉にしたのではなかったか。もっと私に引きつけていえば、私が動物としてのヒトのクセにとりさらわれるには、日々(あるいは間欠的に)PCの前に座ってよしなしごとを書き付ける(緩るやかな)具体的作法が欠かせないことも意味している。

 国分功一郎はこう述べる。

《(思考は強制されるものだと述べた)ドゥルーズは(映画館や美術館に足を運んで)自分がとりさらわれる瞬間を待ち構えている。〈動物になること〉が発生する瞬間を待っている。》

 つまりジル・ドゥルーズにしてから、思考したくないのが人間であると考えており、「世界は思考を強いる物や出来事であふれている」とみている。その「思考の強制を体験することで、人はそれを受けとることができるようになる」。

《〈人間であること〉を楽しむことで、〈動物になること〉を待ち構えることができるようになる。これが本書『暇と退屈の倫理学』の結論だ》

 と、晴れ晴れとした気分を誇らしそうに差し出しながら、締めくくっている。「楽しむ」という言葉を(中動態を明快に提起した国分が)差し挟むことに私はちょっと抵抗を感じるが、ま、それはそれで世代的な表現の好みの差異が現れているのであろう。

 これは、去年4月の山での遭難事故以来、事故の顛末を記憶を遡って考え、リハビリを含めて「わたし」自身を対象にして「考えること」を楽しみながら、この1年間に私が過ごしてきた行程を総括する感触と重なる言葉である。

 国分功一郎は1974年生まれ。私の子どもの世代であるのに、違った経路を歩いて、似たような人間観と世界観を持っている。それを知って、面白いと思っている。私は全く市井の暮らしを歩いてきて、ここにいる。国分功一郎は西欧の言語と古今の哲学書を読み込んできて、似たような感懐を抱いている。その、学者としてではなく、立論の起点に同じ社会を生きる市井の民をおくことに、なにがしかの時代的な共通感覚が培われているように感じ、嬉しく思っている。

2022年5月16日月曜日

「わたし」の世界が狭まってきている

 2020/5/15「まだ、わからない外出の仕方」

 2021/5/15「1年前と同じ「状態」」

 こうして、1年前、2年前と今年とを較べてみると、「わたし」の佇まいが浮かび上がる。今年は「お遍路帰り」である。コロナに関していえば、遍路宿で若い人たちを交えて夕食を楽しんでいるときに「濃厚接触者」になっていても不思議ではないが、幸いにもその後感染した形跡がないから、こうして無事に戻ってきている。振り返ってみると、夕食の時にマスクは外しているし、若い人たちはお遍路をどうやっている、何が面白いとおしゃべりに興じていた。全く警戒はしていない。つまり「自助」によるwith-コロナが日常化していたということだ。

 お遍路帰りの私は、こうしてPCの前に座って、日長よしなしごとを綴る。それはそれで身の振る舞いとして定着しているが、ひとつ大きな変化が起きていることを感じている。集中力がガクンと落ちた。本を読み続けられない。疲れを引きずっているのかもしれないが、読み始めて半時もすると飽きてしまう。一冊、興味津々の本を手にして118頁ほど読んでいる。国分功一郎『暇と退屈の倫理学』(太田出版、2015年)。お遍路から帰ってきたら(出発前に)予約していた図書館から「届いています」とメールが来ていた。

 お遍路に飽きちゃったという気分が、一体どういうことなのかを合わせ考えるのに恰好の本。全部で437頁もあるのに、一週間経ってまだ四分の一しか読み進めていない。ほかにも『いのちの政治学』とか『生物はなぜ死ぬのか』などの面白そうな本も届いているのに、積んだまま。なぜだ、これは?

 86歳の方が老衰で亡くなったと友人が話している。彼は「高齢化のために身体機能が劣化してなくなる場合が老衰なんだね」と笑っていたが、そうか、経年劣化のために躰が思うようにならないのを老衰と呼ぶとしたら、「わたし」の集中力がなくなって本が読めなくなったというのも、老衰の徴候と見た方が良さそうだ。本が読めないだけではない。TVも観つづけることができない。面白くないと、なぜかすぐ分かる。ドキュメンタリーとか、自然の記録とかはそうでもないが、それでも興味関心が持続しない。なんだか、「わたし」の世界が狭まってきている。

 お遍路で身体能力が数え80歳になっていると痛感した。だがじつは、骨や筋肉や運動能力が劣化しているだけでなく、もっと本源的な内臓の力が衰えている。呼吸器系や循環器系、消化器系の衰えが身の奥深くから「状況」を伝えてくる気配を受け止めている。それが歩いている気分に響いていると感じ続けていた。疲れというのが、骨や筋肉の衰弱と快復力のなさというだけでなく、もっと奥深い躰の機能不全が始まっていることに起因すると、ひたひたと感じられてきたのだ。

 それが「飽きちゃった」ことと関係があるのかどうかは、わからない。「わたし」がそういう言葉しか持っていないから「飽きちゃった」と表現してるかだけなのか。「飽きちゃった」というのは、「わたし」と外部との「関心の緊張関係」が希薄になっている表現である。だが外部との関係ではなく、「わたし」の内奥の劣化が「緊張関係」の感受を希薄にしているとしたら、劣化とか老衰というのは、「わたし」が「せかい」から退出しようとするわが身の裡側からの発信ではないのか。そう思ってわが身の「状況」と「寿命」ということを考えてみると、「せかい」が狭まることと彼岸に渡ることとの関係もみえてくるように思った。

2022年5月15日日曜日

ぶらり遍路の旅(5)空海の合理性と悟達

 四国の地勢は、4県を二つ分ける東西に走る四国山脈を背骨と、その南へ延びる支脈の山並みが海にまで迫っている。その山並みがつくる谷と川とその堆積物が長年掛けてかたちづくってきた谷地と三角州が水の湧き出ずるところとなり、人の耕し住まうところとして開かれてきた。

 そう考えて西日本列島を眺めてみると、阿蘇山地から大分県を貫いて豊後水道を抜け海を渡り、愛媛と高知の端境にある四国カルストや石鎚山・瓶ヶ森・笹ヶ峰を経て大歩危小歩危の当たりから吉野川の流れに沿って海に出合い、紀伊水道を通り紀ノ川から吉野熊野に抜ける、地質学でいう中央構造線は、日本列島の西側の一体性を象徴する。そう言えば吉野川と紀ノ川の半ばに位置する沼島は記紀神話の国生みの舞台ではなかったか。

 おっと話が逸れそうだ。19番札所立江寺から始めた今回のお遍路の、20番札所鶴林寺から22番札所平等寺までの遍路道は、標高500㍍ほどの山を2つ越えさらに200㍍ほどの峠を越えて歩いた28.6km。鶴風亭ご亭主の尺八の音に送られてすぐに山道に入る。

「国指定史跡・阿波遍路道」として南北朝時代からつかわれていたとある。簡易舗装をしていたり階段状に整備したりしているが、ゴロゴロしている石を踏み歩くところもある。休憩所もおかれ水呑大師などの謂れの地も残っている。その途中に、再び標高520㍍の21番札所太龍寺へ下り上るルートの一望できるところがあった。主尾根と支尾根の流れ具合を見ると、これが遍路道として選ばれたワケがわかるように思えた。もっとも上りやすく且つ短い距離が選び取られている。一度標高500㍍から川筋まで下る道は「へんろころがし」と名づけられているがそれほどの急傾斜ではない。ふだん山歩きとは縁のない人たちが歩いてきたんだと思う。

 鶴林寺や太龍寺に参詣する道は、自動車道も含めて他にもある。太龍寺は山頂にあるからロープウェイであがってくる人たちもいる。古い道を辿っていると、後から老若3人がやってくる。今日同じ宿を出発してきたのであろう。挨拶をして追い越していった。このうちの40代の女性は、この日あとで同じ宿になるのだが、デイパックにスニーカーという軽装。明るく挨拶をして、軽々と先へゆく。太龍寺の山頂でも会い、平等寺への山道を辿っているときにも、その日の最後の札所・平等寺でも出逢った。また、そのうちの年寄りの1人とは翌日も途中で出合い、4日目には宿が一緒になって5日目に分かれるまで、お遍路についていろいろと教わった先達であった。「お遍路」という同じ舞台を歩いていることから来る共通感覚がベースになるからであろうか。先になり後になり、顔を合わせ言葉を交わす毎に、言葉がほぐれ、関わりが開かれていく。

 この太龍寺から平等寺へ至る遍路道の途中に孟宗竹の竹林がしばらく続くところがあった。よく踏まれた道に、つい先ほど剝いたと思われるタケノコの皮が捨てられ、やわらかいタケノコを生のまま食べたと思われる痕跡があった。あとで聞くと、先行したこの人たちの仕業。「だって道に生えてきたタケノコは採ってやらないとお遍路道が塞がれてしまうから」という言い訳が可笑しかった。

 こうしたお遍路道は、翌日もあり、国道から逸れて「旧土佐街道上り口」「歴史の道土佐街道」「遍路道」という表示が置かれた山道への入口があった。雨だったが、中岡慎太郎と坂本龍馬が(江戸剣術修行のあとだったろうか)土佐に戻るときにつかったとあった説明に惹かれてそちらへ踏み込んだ。4キロほどではなかったか。国道をショートカットするルートであり、途中の峠越えから見下ろす阿南市の由岐漁港は雨に煙ってひっそりとしていた。それが近道であったと分かるのは、先行した同宿の40歳代の大阪のおばちゃんや遍路旅何度もという70代はじめの先達が田井ヶ浜の遍路休憩所で、雨を凌ぎ昼食を取っているところで出逢ったからだ。

 この歴史の道・土佐街道は土佐東街道と名称を変えて室戸岬の方へずっと続いている遍路道と重なる。山を抜いてトンネルを国道が抜け、古い道は忘れられている。わずかに「へんろ協会」と称する団体(?)が「へんろマーク」に「↑」をつけて、ところどころに置いているのだが、うっかり見落とすと道に迷うことになり、結局国道や県道に戻ってしまうしかないところもある。あるいは、「へんろみち・土佐街道」の表示はあるが、通行禁止と書いてあったり、ただロープを張って入らないように標しているところもあった。

 4日目以降は徳島県最後の23番札所薬王寺から室戸岬の24番札所最御崎寺までの間、適当なところで宿を取りながら75kmを歩かなければならない。普通にgoogle-mapの「経路案内」に掛けると国道ばかりを歩くことになる。昔日の遍路道は山を越え海辺を歩いてトンネルをくぐらない。その道はしかし、道路に現れる表示だけを辿っていては、分からない。途中で、一昨日山越えで顔見知りになった先達と60歳代半ば夫婦に声を掛けられ、のちに同じ宿に泊まることがわかったのだが、この方たちは先達の案内で、途中昔の遍路道へ姿を消し、何本もあるトンネルを回避して山を越え、海辺の浜を歩く昔日の「遍路道」を歩いて面白かったと話をしてくれた。彼らが宿に着いたのは私の1時間ほど後であった。この遍路宿も、早く着いた私のために早めに風呂をたて、食事も同宿者が一緒に話をしながら会食するかたちであったから、そういう言葉を交わす機会があった。

 のちに私はできるだけ昔日の「へんろみち」を取るように考えはしたが、5日目頃までは躰に残る疲れが歯茎の痛みや肩に響き、できるだけ早く宿に着くようにしたこともあった。そうして気づいたのが、ぶらり遍路の旅(2)で記した「お大師さんとの同行二人」であった。

 いろいろな宿に泊まって、様々な感懐を抱いてお遍路をしているうちに、野宿をして歩く空海に思いを馳せることが多くあった。1200年前の彼にとって、お遍路とは修行であったという。たぶん人口は、今の十分の一ほどしかなかったろうから、本当にぽつりぽつりと点在する集落をたどり、暮らしに必要な水の湧き出ずるところを発見して水利を施し、あるいは病を癒やして旅をしていたのであろう。山を抜ける遍路道の合理性から感じるのだが、いまからみると謂わば合理的な知恵と技法を存分に発揮し、(その証明しようのないことを人々には)「密教」として伝えていたのではないか。そんな思いが、わが胸中に湧き起こってくる。

 どうやって食料を手に入れていたのだろうか。食べることのできる野草や根茎類の掘り出し方、調理の仕方も知っていたであろう。地蔵尊やお大師伝説のかたちを見ると、空海の知恵知識は、いまで謂う合理性に徹していて、ただなぜそれが分かるかを証明する必要があったわけではないから、彼自身は、数多の書物から汲み上げた知恵と技法を、壮大な宇宙観と共に「密教」として体系化した。そう感じた。

 札所毎に、お大師堂と本堂で「般若心経」を詠唱しているうちに、「無無明亦無無明尽」は、ことの根源を解き明かそうとするよりも、実際に知恵と技法を用いて暮らしに必要なことごとを実現すること、つまり暮らしそのもののために「密教」を用いて行くことが不可欠であり、その知恵と技法を体得するのが修行者のなるべきことといっているように感じたのであった。突き放していえば、向き合っている大自然からするとヒトはいかにもちっぽけ、その大自然とちっぽけなミクロの「わたし」とを総合的にみてとると「無無明亦無無明尽」というほかない。空海は、そう悟醒し達観したのではないかと思った。

2022年5月14日土曜日

ぶらり遍路の旅(4)文化が受け継がれるまだら模様

 遍路宿の話しを続けます。

 第3日目と連休中の第11日目、第13日目はいわゆる観光ホテルに泊まった。いずれも天然温泉付き。

 3日目は朝から雨。雨具のズボンにポンチョ風の雨具を着て、ザックにも雨カバーを付けて歩いた。行程は19キロくらいと見ていたが(たぶんGPS計測の)歩数計は26.7キロをはじき出した。雨と汗で濡れて到着した遍路宿はホテル白い灯台。2時過ぎには到着。チェックインは3時とあったが部屋には早く入れてくれ、天然温泉風呂の開始4時以前に部屋のバスは使っても良いというので湯を溜めて汗を流し、濡れた衣類を全部、コインを用いる洗濯機で洗い乾燥機で乾かすことができた。夕食も朝食も坦々と機能的な関係で貫かれ、これはこれでさっぱりとしていた。後2者は時節もあって賑わっていたが(お遍路さんだから何と感じさせることもなく)実務的に手続きをして洗濯・乾燥もできた。

 あとの11泊は(名称でいえば)「民宿」7泊と「旅館」4泊。そのうち「民宿」のひとつは「ビジネスホテル」と称する別館の方で素泊まりになったが、要は一室を借用するというだけの素っ気ないものであったから、清潔感や心地よさを別とすると実務的には上記観光ホテルと変わらない。

 「旅館」4軒のうち1軒は素泊まり。何度もお遍路をしている方がその旅館の名を聞いて「檜風呂があるよ」と話していたから、老舗なのだろう。部屋は床の間も欄間もある十畳間。次の間も付いている。建物入口の壁には「**旅館」のエンブレムが掲げられている。女将が高齢となり、子どもが後を継がず食事接待ができなくなったと(その後の人の動きを見て)推察された。女将が洗濯・乾燥もまとめてやってくれた。

 他の3軒も(気分的な差異はあるが)おおむね実務的にテキパキとかかわり、食事も給仕をすることなく、民宿同様、自前であった。観光ホテルは旅館と異なり建物に手を入れているが、旅館は古い建付のまま。湧き水を中庭の小川に流して風情のある雰囲気を醸し出している旅館もあった。値段も料理も上等な接遇をする民宿とさして変わるところはない。建物が(当然ながら)旅館仕様というか、客室と従業員のそれとがきっちりと分けられていて、その土地の人々の暮らしに踏み込んだという感触はない。

 「民宿」はそこが違った。最初の2泊したところ同様、もてなす方も旅する人を受け容れて言葉を交わす気風を残し、交歓している気配がある。やってきた旅する相手の気配を身計らいながら、気遣いをする。旅する方は、地元の人たちの暮らしの佇まいが醸し出す気風を感じ、それを受けとって次へ旅立つ。そんな感じだ。ことに良質な文化と人の暮らしを強く感じさせたのが、徳島県の海部郡の民宿大砂であり、高知県に入って室戸岬へ至る港の入口に位置する民宿椎名であった。

 ところが「民宿」も一様ではない。品の良い個人宅もあれば、かつての商人宿のように何室かが連なり、食堂もトイレや風呂もそれなりに大きいのが用意されているところもある。ぶらり遍路の旅(2)で、「何でその宿にしたの?」と訝しげな声の響きを感じた「民宿***」は国道に面した食堂を兼ねていた。

 訝しげな声が何を意味していたかは、泊まってみて分かった。建物が古いまま。トイレも段差のある落とし便所に便座を据えて軽水洗の装置を付けただけ。廊下も歩くと軋んできゅうきゅうと音を出す。部屋の鍵もドアに打ち付けた金具に柱に付けた留め具を引っかけるだけの簡便なもの。風呂も裸コンクリートを打っただけの(昔の田舎の)洗い場にステンレスの箱形風呂が置かれているというぶっきらぼうなもの。多くの民宿が、例えばトイレは最新のお尻洗浄便座に切り替えているのに、そうした快適居住空間への投資を全くしないで、ハードをそのまま宿として、まさしく「民宿」にしている素朴さ丸出しの様子であった。

 訝しげな声を発した翌日の民宿の女将の話では、以前この「民宿***」に泊まった女性客から夜中に電話があった。他の客が部屋へ入ってくるんじゃないかと心配で寝られない、悪いがぜひ迎えに来てほしいという願いであった。残念ながら迎えに行くことは出来ないので、「朝一番のバスで家へお出で。ゆっくり休めるようにしてあげるから」と応対し、実際にその子は(寝不足の青ざめた顔で)やってきたという。そうだよな。私のような敗戦直後の貧窮生活を田舎で味わってきたものにとっては、むしろ身に染みこんだ懐かしさを覚えるような佇まいも、今様の快適な生活空間に馴染んできた人たちにとっては、恐怖を覚えるものなのかもしれない。加えて女性の本源的に持つ脅威もあったろうと思った。

 いや、もうひとつある。「民宿***」の夕食は玄関の食堂のテーブルに用意されていた。鰹のたたき、煮付け、エビや野菜の天ぷら、昆布の佃煮、たくわんなどのほかにおでんが盛り付けられていた。ちくわや(関西でいう)てんぷら、ゆで卵などなど。前日の民宿大砂の、手の込んだタケノコづくしの料理を味わってみた者からすると、なんだこのコンセプトは? と思うような食卓。ともかくたくさん提供するのが一番、コンセプトもへったくれもないというもてなし。私は、あまり料理が得意ではなかったわが母親のことを思い浮かべていた。つまりこの女将が吝嗇というわけでもないし、もてなす心持ちを持っていないわけでもない。だが、時代に取り残された接遇のセンスをそのまま保って提示している。それが(えっ、そんなところへ泊まるの? という)訝しげな響きの大元なのだろうと思った。つまりまだら模様に受け継がれ広まっていく文化のちぐはぐさが、お遍路の「情報紐帯」の話題として知れ渡っているのであろう。

 もう1軒、食堂を兼ねている「民宿」があった。こちらは土産物も並べていて商売っ気たっぷり。建物はそれなりに清潔感があったが料理はごくごくシンプル。いかにもいつもの家庭料理をそのまま提供している風情だが、別にこちらは「おもてなし」を期待しているわけでもないから、他に較べてさっぱりしているなという感懐をもっただけで訝しさを感じるようではなかった。これもまだら伝承文化のもたらすものといっていいかもしれない。

 そういう意味では今回のお遍路中、大型連休とぶつかって「民宿」へ泊まることになったのは、幸いであったと言えるかも知れない。まさしく県民性も含めた、綿々と受け継がれて形を成してきた文化の差異を(私自身の敗戦後体験と重ねて)振り返ることになった。「同行」するもう一人の「わたし」がいつも目の当たりに出現したような心持ちであった。

2022年5月13日金曜日

ぶらり遍路の旅(3)生活文化の気風

  遍路宿の話をしましょう。

 振り返ってみると私にとって今回最初の遍路宿・鶴風亭は、「わたし」を日常と切断する恰好の舞台でした。家はごく普通の民家。入口に「鶴風亭」と厚い板に深い彫り込みを入れた手作りの看板を掛けている。ご亭主が迎えてくれ、女将が果てを案内する。一階の部屋にはすでに1人先客がいる。私は二階。風呂をたて洗濯物を入れる網袋を渡してくれる。夕食を待つ間、下から尺八の音が聞こえてくる。1970年代の歌謡曲なのだが、尺八の音色に乗るとまるであがた森魚の昭和エレジーのように哀調を帯びて響いてくる。予約電話を受けた女将は「野菜ばかりの料理ですが大丈夫ですか?」と付け加えた。その通りであった。山菜に手を加えた品々が、たくさん並ぶ。同宿は2人。食卓を囲む。はじめ女将が、後にご亭主が傍らに座って、あれこれと言葉を交わす。

 言葉少ない先客は86歳、来る途中で私が追い越し、私が道の駅でひと休みしてその後に道に迷っている間に到着した。何度もお遍路をしている常連のようであった。翌日の朝食は6時半。先客は食事が終わるとすぐに出発した。その備えといい手際といい、山歩きの先達を見るよう。彼の出発の時私は二階で荷造りをしていたのだが、尺八が響く。先客への送別の調べであった。

 同様に私も尺八の音に見送られ、100㍍ほど先の角を曲がるときに振り返ると女将がまだ立っている。私も丁寧にお辞儀をして、そうかこれがお遍路のおもてなしかと感じ入った。こうして、ここから私のぶらり遍路の旅が始まったのだったと、あらためて思う。

 この遍路宿、朝の朝食の他にお昼の弁当も作ってくれた。これはありがたかった。第二日の遍路道は、標高500㍍ほどの高さを2度上り下りしてのちに、もう一度標高200㍍ほどの峠を越えてゆく「へんろころがし」と呼ばれている山道。あとでみると28.6kmの行程を歩いている。おにぎりにバナナ、蜜柑、飴二つ、ペットボトルもついて万全だと思った。

 二日目に泊まったパンダ屋の遍路客は6人もいた。私と70歳ほどの男性客以外は若い人たちばかり。20歳代の男性客とアラサーの女性2人、40歳代半ばの女性が1人。若い女性お遍路たちは前日の宿泊が一緒だったらしく、賑やかに言葉を交わしていた。20歳代の1人は「遍路フリーク」を自称する。何度も歩いていて、今回はどこそこの何を狙っていると、何やら遍路道途中にある食べ物の話をしている。40歳代の女性は今日の行程で私を追い越していった方。途中にあるお地蔵さん毎に立ち止まって手を合わせているのが目を留まった。そのワケを訊ねると、子どもの頃育った大阪・道頓堀からお地蔵さんを祖父が取り出して祀っていたという文字通り大阪のおばちゃん。40日間のお休みがとれたので、何処まで行けるかチャレンジやという。磊落闊達。この人たちのおしゃべりを聞きながらの夕食は2時間近くになった。パンダ屋という宿の名前が若い人を呼び込むのだろうか。ここのご亭主は食事を出すと「皆さんでどうぞ。私は晩酌をしますので」といって引っ込んでしまった。洗濯も乾燥機も備えていて、文字通りお遍路仕様。おにぎりもバナナも注文に応じて50円払って持ってけという感じ。こういうあっけらかんな感触が若い人に受けるのかも知れない。

 おしゃべりの中で、前日同じ宿に泊まった人たちが出発するとき靴を間違えられた騒ぎがあり、それが収まったかどうかわいわいと遣り取りが交わされた。このとき20歳代の男性が四国4県の県民気質を話題にした。彼は愛媛の生まれ、靴間違いにまつわる徳島の人たちの動きがこんなにお遍路に優しいのが気になって、県民気質を考え始めたらしい。そうか、私は香川県高松の生まれ、9年そこで育った。カミサンは高知の生まれ、18年そこで育った。でも県民気質という風に考えたことはなかった。いや、県民気質と考えるかどうかは別として、人が受け継いでいく気風は暮らしの文化として人の肌に染みこんでいく。それが人柄となってことあるごとに滲み出てきて、その、ある種の地域的な共通性を「県民性」として分節化して理解するのかもしれない。じゃあ、逆にとらえることも可能なのではないか。地域的な切り取り方を生活文化の気風の違いを取り出す方法としてみると、案外見えるものがあるような気が掠めた。それが、後に泊まる遍路宿のもてなしで明らかになってきたと思えたのでした。

2022年5月12日木曜日

ぶらり遍路の旅(2)お大師さんとの同行二人

 お遍路の宿は遅くとも当日の昼までには予約しましょうと、何時、誰から教わったか忘れてしまったが、そういうものだと17年前の初回のお遍路の旅で覚えた。

 今回は用心して、歩き始める前日の夕方に予約の電話を入れた。ところがお目当ての宿は「ご主人が入院して営業していない」という。そうか、そういうこともあるんだとはじめて宿の移り変わりを勘定にいれることになった。

 このときは紹介して貰った3軒の別の宿に当たる。一つは満室、一つは応答なし。ちょっと慌てた。最後の一つ「かくふうてい」が「どうぞ」と受け入れてくれた。これが営業していない宿の近くということもあって、ちょっと安堵したのであった。

 そのせいもあって、二日目の宿にも早々と電話を掛けた。お目当ての宿は満室。そこで紹介された「ぱんだや」に予約したら、ご主人が「前日の宿は何処だ」と聞く。「かくふうてい」だと応えると、「ああ、尺八の名人だよ。よろしく言っといて」と気安くいう。そうか、そういう付き合いもあるんだと、またひとつ遍路宿の「情報紐帯」のようなものを感じた。こういった感触が味わえるのがぶらり遍路の醍醐味になるか。

 宿の予約の話しに戻ろう。「3月から4月は季節が良くてお遍路さんが増えるからね」と最初の泊まった鶴風亭のご亭主が言う。「ぱんだや」に泊まるのが土曜日ということもあったかもしれない。ならば日曜日のも早く予約しなきゃあと電話を入れたのは、23番札所薬王院。「宿坊は止めました」という。地図にある近場の民宿などに電話をすると「満室」。その先は17キロも離れている。手前2キロほどのホテル白い灯台に電話をする。「お遍路ですが」と前置きしなさいと誰にだったか教わっていたからそう言ったら、シングルの値段は9千なにがしかするが良いかと念を押す。いやも応もない。鶴風亭やパンダ屋は7千円ベースだったからちょっと高いとは思ったが、ホッとしたのであった。ところが私が白い灯台に泊まると知ったお遍路の人たちは、「いいねえ、温泉ですよ。それも海がみえる絶景」とか「私も泊まりたかった」と絶賛する。何度も歩いている人がひとり「かつては8千円台だった」と話した。細かい数字は忘れたが、支払いの時1割の消費税と入湯税を加えて9千なにがし。つまり8300円だと計算して、「お遍路です」といったのが利いていると思った。だが更に後で、他の民宿や旅館は税込みで6000円~7000円でやってるんだと気づいたが、消費税をどうしているんだろうとまでは考えもしなかった。

 そういうことがあったから、宿に着き、草臥れ具合を推しはかり、早め早めに宿の予約を取るようにした。7日目の宿を予約したとき、電話に出た女将が「前日は何処?」と聞く。「民宿***です」と応じると、何でそこを予約したのと言ったろうか、何か含むような物言いを感じた。泊まってみて分かった。明らかに他の遍路宿とは違う。何がどう違うかは、またひとつ、暮らしにおける文化の違いにかかわるように思うから後に取り上げて述べるが、こうした遍路宿の「情報紐帯」は、お遍路さんと遍路宿のご亭主とがとり交わす遣り取りや出来事を通じて、つくられていっているんだと思った。

 宿の予約でもう一つ難題があることに気づいた。大型連休である。連休に(休暇の取れた)お遍路さんが押し寄せるということもあろうが、家族連れが観光にやってくる。殊に今年は、コロナ禍自粛が続いたのが解除されたから、よほどの混雑になるだろう。更に早めに予約を取った。それが正解であったかどうかは、終わってみても分からない。だが、その距離を歩ききったこととか、疲れ具合を考えると、まあ、そこそこ良い線行ったのではないかと振り返っている。他のお遍路さんは前泊したところで、次の宿の情報を聞いて予約を取るようにしたという方と、そもそも出発前に(休暇の取れた何日間かの)宿情報をネットでチェックし予約を取ってからやってきたという。なるほど、デジタル世代の強みがよく現れている。差し詰め前者はアナログ世代だなと思った。

 大型連休といえば、ホテルなどには特別料金があることも分かった。高知市の中心部に近いホテルはシングルが19000円、また別の土佐市のホテルは素泊まり13200円であった。こういうときにお遍路さんは動くなということなのかも知れない。それでも値段が変わらない遍路宿はあったから、事前によく調べて繰り出せということかも知れない。もっとも私は、山小屋の宿泊料金と比較していたから、じつは、それほど高いとは思っていない。山小屋は2食付きだが1万円前後する。むしろ6000円とか7000円でやっている遍路宿の方を、大丈夫かなと気遣ったほどだ。

 そうだ、も一つ触れておかねばならない大事なことがあった。

 学生風の若いお遍路が大きいザックを背負って、前になり後になりしばらく一緒になり、休憩所で話すこともあった。第8日目の朝私が歩いていると、高いところから「おはようございます」と声がかかる。見上げると、3㍍ほどの高い櫓の上にある遍路休憩所の東屋から昨日一緒になった学生風が笑っている。室戸世界ジオパークの入口。23番札所から24番札所までの75キロ、左に海を見ながら歩き続けるところだ。彼はここで泊まったという。「遍路休憩所」を辿って泊まりながらお遍路を続ける。トイレがあり、水が出て、雨が凌げるところ。ツエルトをもっている。そうだ、若い頃はこうやって山を歩いていたと身の裡の何かが共振する。これこそが、お大師さんとの同行二人だと感じ入った。お遍路の原点だ。大型連休であたふた、スマホで宿を予約をしてホッとしているなんて何やってんだお前、と天から叱る声が聞こえたようであった。

2022年5月11日水曜日

ぶらり遍路の旅(1)へんろみちの変遷をぶらり

 遍路の旅に出る前、ある種の不安に襲われていた。行程を組んでみたら、5月末に岡山で開かれる予定の「同窓会」までに歩ききるには、毎日平均30kmの行程を組まなければならない。宿があるかどうかを考慮すると25km~35kmの幅が必要になる。たぶん山の事故を起こす前ならば、これくらいは大丈夫と踏んだと思う。そこで日々平均25kmで行程を組み直した。「同窓会」までに善通寺辺りまで行けそうと分かる。善通寺は岡山へ出るのにちょうど良いし、弘法大師の生まれ故郷でもあるし、何より私の生まれた香川県に入っている。そうだこれで行こうと一旦安堵した。

 ところが出発が近づくにつれて、計算上の行程と実際の行程が違うことも気になる。なにより毎日25kmを何十日も続けるということができるかと自問自答することがあった。これまで山へ入った最長期間は、30日。インドヒマラヤの無名峰へ向かったとき。一週間ばかりの停滞を挟んで、ほぼ毎日山を歩いた。体重も7キロくらい落ちただろうか。下山したときは、ぜんそく気味になって、インドの医者に診てもらうこともあった。それ以外、二週間を越える山歩きをしたことがない。若い頃は回復力があった。だが今は間違いなくそれが衰えている。そういう不安が昂じてきた。もう一度組み直し、日々平均20キロ程度に設定し直して、やっと心穏やかに出発を迎えた。

 これは、結果的に見ると正解であった。実際に歩いてみると、「遍路道」はこれと決まっているわけではなく、何処を通っても「目的の札所」へは行ける。車で行く人もいれば、自転車の人もいる。昔の「遍路道」がはっきりしているところもあれば、トンネルを抜けたりショートカットして新しい道路が設けられているところもある。プランニングの時に私が参考にしたのは、2005年頃に編輯された「へんろみち地図」とネットで手に入れた「四国遍路巡礼マップ2020」であった。前者は地図自体の(情報量の多い)描写が複雑さを増していてルートを見て取るのが難しく、結局つかわないままであった。後者は山の地形図の5万図のような感じで大雑把に見るにはいいが、子細はずいぶんズレが出るようであった。

 プランニングでは後者をつかい、実際に歩くときにはgoogle-mapの「経路ガイド」を用いた。これは出発前にスマホの購入店へ行って使い方を教わり、使いながら、その「経路ガイド」の見方を知り使い方に慣れるという馴染み方をした。「目的地」へ行くルートはいくつも選ぶことができる。複数のルートを示す点線が表示される。ルートの一つには「*分遅れ」などと表示がつく。なんだコイツは、歩く速度にまで標準を押しつけてくるのかと最初思った。違った。ある一つのルートが最短、それとは違うルートをとると「*分遅れ」と時間がかかることを示しているのだと分かったのは、5日ほど経ってからであった。また私が好んで主要な自動車道路を外れて田舎道を歩くことを察知して示すのかと思ったほど、回り道をする。どこにいても経路を示し「*分遅れ」は大きくなり、すっかり違う方向へ進んでいたこともあった。つまり私の「ぶらり」がどんどん道を外してしまっていたのだ。

 結果的に今回歩いた全行程の、当初計画355km行程が実歩行422kmであったという、25%増しの歩行距離になっていた。それは前回の報告に記したとおりである。この25%増がぶらり遍路のぶらり部分、そう考えると、最短距離を歩くよりも面白いルートを歩いたなあという感懐が、ひときわ増してくる。

 実を言うと、昔の遍路道を記した「へんろみち地図2019年版」が見やすい印刷物となって刊行されていることも分かった。ほとんどの歩き遍路の方々はそれを見ていたのだが、それに記されたルートは私の歩いたルートよりも更に長く、道路が新設されてトンネルを抜けるところも、山を越え海辺に降りて砂浜を歩くというように、昔日の経路を丁寧に記しているようであった。

 こうして不安の中でスタートしたぶらり遍路の旅は、出会う人、出逢う場所によっていろいろなことを教わりながら始まったのです。

2022年5月10日火曜日

「お返路」して、帰ってきました。

  四国のお遍路から戻ってきました。

 えっ、五月いっぱいの予定ではなかったの? とお思いでしょう。

 その通りです。でも途中でひと区切り付けて、帰ってきてしまいました。なぜ続けなかったのか、どうして止めたのか。これは「お遍路敗退」ではないのか、などと思い巡らしながら、今考えているところです。そもそも全部通しで歩こうというお遍路を意図していたわけでもありませんから「敗退」ってのは、似つかわしくありません。お遍路を(ひとまず)お返路したっていうところですね。

 自分でも、よく分からない。身の裡の感触は言葉にできます。飽きちゃったんです。

 何やってんだろうねえと、自問自答が始まり、これよりは、山歩きの方が面白いじゃんとか、家に籠もって浮かび来るよしなしごとを綴っている方が、身の充足感が一段上なんじゃないかとか、感じるようになってしまったんです。

 なんでだろう? 飽きちゃうって、何だろう?

 私の本源的なナニカが、声を上げ始めているのだろうか。あれやこれや思い巡らして、いややっぱり、まずなによりもすっかり草臥れているわいと、取りやめて戻ってくるまで、帰ってきてからのわが身の振る舞いを振り返って、身の奥底からの声に耳を傾けている次第です。

 子細は後ほど記しますが、19番札所立江寺から37番札所岩本寺まで合計422キロ、4月22日から5月7日まで16日間歩いてきました。1日の最長歩行距離は35キロ、最小歩行距離は13キロ、平均するとほぼ毎日26キロ歩いた勘定になります。でも振り返ってみると、歩いた距離と疲労感とは比例していません。感じ取る疲れははじめの頃が強く、だんだんに慣れてきて、切り上げることには、えっこんなに歩いたの、と終わって歩数計を見て驚くようでした。もちろん気分は、まだまだ歩けると余裕のよっちゃんでした。

 ところが、岩本寺近くの窪川の宿で一泊、翌日岡山の兄の家に泊まって翌々日、つまり二日掛けて帰宅したのですが、窪川から岡山までの電車の中と岡山から浦和までの電車の中で読んだ本はわずか3頁ほど。少し読んで考え耽っている間に眠り込みボーッとしている間に電車は乗換駅に到着しているという有様。つまり躰はすっかり疲れてしまっていたのだと、振り返って思うようでした。

 気分は余裕のよっちゃんでしたが、躰は数えの八十歳を忘れずにいて、そのギャップを身の裡の奥底から伝えてきているようです。

 じゃあ、どちらを「わたし」は選ぶか。もちろん躰の言い分を聞き届けなくてはいけません。思いのままに振る舞って矩を越えずという年齢になっているとは言え、やはり身の内奥からの声を聞き届けなくては、自ずから調整して行けるほど、繊細にコトを感受し反応する鋭さは失われて、鈍くなってしまっているのです。

 出立するときに、ちゃらんぽらん遍路だったり、ぶらり遍路であったりすると口上を述べたのは、じつは自戒でもあったのですね。けっしてナニカをやり遂げようと意図したり強く決意して身を損なうようなことをしてはいけませんよ。それくらいお前は、身と心の歩度を調整しなくてはならない歳なのですよと、言い聞かせようとしていたのだと、今更ながら思っている次第です。

 とりあえず、帰還のご挨拶をして、明日以降ぼちぼちと、「お返路」に至るまでのお遍路を振り返ってみようと思っています。再び、よろしくお付き合い願います。