2022年5月14日土曜日

ぶらり遍路の旅(4)文化が受け継がれるまだら模様

 遍路宿の話しを続けます。

 第3日目と連休中の第11日目、第13日目はいわゆる観光ホテルに泊まった。いずれも天然温泉付き。

 3日目は朝から雨。雨具のズボンにポンチョ風の雨具を着て、ザックにも雨カバーを付けて歩いた。行程は19キロくらいと見ていたが(たぶんGPS計測の)歩数計は26.7キロをはじき出した。雨と汗で濡れて到着した遍路宿はホテル白い灯台。2時過ぎには到着。チェックインは3時とあったが部屋には早く入れてくれ、天然温泉風呂の開始4時以前に部屋のバスは使っても良いというので湯を溜めて汗を流し、濡れた衣類を全部、コインを用いる洗濯機で洗い乾燥機で乾かすことができた。夕食も朝食も坦々と機能的な関係で貫かれ、これはこれでさっぱりとしていた。後2者は時節もあって賑わっていたが(お遍路さんだから何と感じさせることもなく)実務的に手続きをして洗濯・乾燥もできた。

 あとの11泊は(名称でいえば)「民宿」7泊と「旅館」4泊。そのうち「民宿」のひとつは「ビジネスホテル」と称する別館の方で素泊まりになったが、要は一室を借用するというだけの素っ気ないものであったから、清潔感や心地よさを別とすると実務的には上記観光ホテルと変わらない。

 「旅館」4軒のうち1軒は素泊まり。何度もお遍路をしている方がその旅館の名を聞いて「檜風呂があるよ」と話していたから、老舗なのだろう。部屋は床の間も欄間もある十畳間。次の間も付いている。建物入口の壁には「**旅館」のエンブレムが掲げられている。女将が高齢となり、子どもが後を継がず食事接待ができなくなったと(その後の人の動きを見て)推察された。女将が洗濯・乾燥もまとめてやってくれた。

 他の3軒も(気分的な差異はあるが)おおむね実務的にテキパキとかかわり、食事も給仕をすることなく、民宿同様、自前であった。観光ホテルは旅館と異なり建物に手を入れているが、旅館は古い建付のまま。湧き水を中庭の小川に流して風情のある雰囲気を醸し出している旅館もあった。値段も料理も上等な接遇をする民宿とさして変わるところはない。建物が(当然ながら)旅館仕様というか、客室と従業員のそれとがきっちりと分けられていて、その土地の人々の暮らしに踏み込んだという感触はない。

 「民宿」はそこが違った。最初の2泊したところ同様、もてなす方も旅する人を受け容れて言葉を交わす気風を残し、交歓している気配がある。やってきた旅する相手の気配を身計らいながら、気遣いをする。旅する方は、地元の人たちの暮らしの佇まいが醸し出す気風を感じ、それを受けとって次へ旅立つ。そんな感じだ。ことに良質な文化と人の暮らしを強く感じさせたのが、徳島県の海部郡の民宿大砂であり、高知県に入って室戸岬へ至る港の入口に位置する民宿椎名であった。

 ところが「民宿」も一様ではない。品の良い個人宅もあれば、かつての商人宿のように何室かが連なり、食堂もトイレや風呂もそれなりに大きいのが用意されているところもある。ぶらり遍路の旅(2)で、「何でその宿にしたの?」と訝しげな声の響きを感じた「民宿***」は国道に面した食堂を兼ねていた。

 訝しげな声が何を意味していたかは、泊まってみて分かった。建物が古いまま。トイレも段差のある落とし便所に便座を据えて軽水洗の装置を付けただけ。廊下も歩くと軋んできゅうきゅうと音を出す。部屋の鍵もドアに打ち付けた金具に柱に付けた留め具を引っかけるだけの簡便なもの。風呂も裸コンクリートを打っただけの(昔の田舎の)洗い場にステンレスの箱形風呂が置かれているというぶっきらぼうなもの。多くの民宿が、例えばトイレは最新のお尻洗浄便座に切り替えているのに、そうした快適居住空間への投資を全くしないで、ハードをそのまま宿として、まさしく「民宿」にしている素朴さ丸出しの様子であった。

 訝しげな声を発した翌日の民宿の女将の話では、以前この「民宿***」に泊まった女性客から夜中に電話があった。他の客が部屋へ入ってくるんじゃないかと心配で寝られない、悪いがぜひ迎えに来てほしいという願いであった。残念ながら迎えに行くことは出来ないので、「朝一番のバスで家へお出で。ゆっくり休めるようにしてあげるから」と応対し、実際にその子は(寝不足の青ざめた顔で)やってきたという。そうだよな。私のような敗戦直後の貧窮生活を田舎で味わってきたものにとっては、むしろ身に染みこんだ懐かしさを覚えるような佇まいも、今様の快適な生活空間に馴染んできた人たちにとっては、恐怖を覚えるものなのかもしれない。加えて女性の本源的に持つ脅威もあったろうと思った。

 いや、もうひとつある。「民宿***」の夕食は玄関の食堂のテーブルに用意されていた。鰹のたたき、煮付け、エビや野菜の天ぷら、昆布の佃煮、たくわんなどのほかにおでんが盛り付けられていた。ちくわや(関西でいう)てんぷら、ゆで卵などなど。前日の民宿大砂の、手の込んだタケノコづくしの料理を味わってみた者からすると、なんだこのコンセプトは? と思うような食卓。ともかくたくさん提供するのが一番、コンセプトもへったくれもないというもてなし。私は、あまり料理が得意ではなかったわが母親のことを思い浮かべていた。つまりこの女将が吝嗇というわけでもないし、もてなす心持ちを持っていないわけでもない。だが、時代に取り残された接遇のセンスをそのまま保って提示している。それが(えっ、そんなところへ泊まるの? という)訝しげな響きの大元なのだろうと思った。つまりまだら模様に受け継がれ広まっていく文化のちぐはぐさが、お遍路の「情報紐帯」の話題として知れ渡っているのであろう。

 もう1軒、食堂を兼ねている「民宿」があった。こちらは土産物も並べていて商売っ気たっぷり。建物はそれなりに清潔感があったが料理はごくごくシンプル。いかにもいつもの家庭料理をそのまま提供している風情だが、別にこちらは「おもてなし」を期待しているわけでもないから、他に較べてさっぱりしているなという感懐をもっただけで訝しさを感じるようではなかった。これもまだら伝承文化のもたらすものといっていいかもしれない。

 そういう意味では今回のお遍路中、大型連休とぶつかって「民宿」へ泊まることになったのは、幸いであったと言えるかも知れない。まさしく県民性も含めた、綿々と受け継がれて形を成してきた文化の差異を(私自身の敗戦後体験と重ねて)振り返ることになった。「同行」するもう一人の「わたし」がいつも目の当たりに出現したような心持ちであった。

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