2022年5月13日金曜日

ぶらり遍路の旅(3)生活文化の気風

  遍路宿の話をしましょう。

 振り返ってみると私にとって今回最初の遍路宿・鶴風亭は、「わたし」を日常と切断する恰好の舞台でした。家はごく普通の民家。入口に「鶴風亭」と厚い板に深い彫り込みを入れた手作りの看板を掛けている。ご亭主が迎えてくれ、女将が果てを案内する。一階の部屋にはすでに1人先客がいる。私は二階。風呂をたて洗濯物を入れる網袋を渡してくれる。夕食を待つ間、下から尺八の音が聞こえてくる。1970年代の歌謡曲なのだが、尺八の音色に乗るとまるであがた森魚の昭和エレジーのように哀調を帯びて響いてくる。予約電話を受けた女将は「野菜ばかりの料理ですが大丈夫ですか?」と付け加えた。その通りであった。山菜に手を加えた品々が、たくさん並ぶ。同宿は2人。食卓を囲む。はじめ女将が、後にご亭主が傍らに座って、あれこれと言葉を交わす。

 言葉少ない先客は86歳、来る途中で私が追い越し、私が道の駅でひと休みしてその後に道に迷っている間に到着した。何度もお遍路をしている常連のようであった。翌日の朝食は6時半。先客は食事が終わるとすぐに出発した。その備えといい手際といい、山歩きの先達を見るよう。彼の出発の時私は二階で荷造りをしていたのだが、尺八が響く。先客への送別の調べであった。

 同様に私も尺八の音に見送られ、100㍍ほど先の角を曲がるときに振り返ると女将がまだ立っている。私も丁寧にお辞儀をして、そうかこれがお遍路のおもてなしかと感じ入った。こうして、ここから私のぶらり遍路の旅が始まったのだったと、あらためて思う。

 この遍路宿、朝の朝食の他にお昼の弁当も作ってくれた。これはありがたかった。第二日の遍路道は、標高500㍍ほどの高さを2度上り下りしてのちに、もう一度標高200㍍ほどの峠を越えてゆく「へんろころがし」と呼ばれている山道。あとでみると28.6kmの行程を歩いている。おにぎりにバナナ、蜜柑、飴二つ、ペットボトルもついて万全だと思った。

 二日目に泊まったパンダ屋の遍路客は6人もいた。私と70歳ほどの男性客以外は若い人たちばかり。20歳代の男性客とアラサーの女性2人、40歳代半ばの女性が1人。若い女性お遍路たちは前日の宿泊が一緒だったらしく、賑やかに言葉を交わしていた。20歳代の1人は「遍路フリーク」を自称する。何度も歩いていて、今回はどこそこの何を狙っていると、何やら遍路道途中にある食べ物の話をしている。40歳代の女性は今日の行程で私を追い越していった方。途中にあるお地蔵さん毎に立ち止まって手を合わせているのが目を留まった。そのワケを訊ねると、子どもの頃育った大阪・道頓堀からお地蔵さんを祖父が取り出して祀っていたという文字通り大阪のおばちゃん。40日間のお休みがとれたので、何処まで行けるかチャレンジやという。磊落闊達。この人たちのおしゃべりを聞きながらの夕食は2時間近くになった。パンダ屋という宿の名前が若い人を呼び込むのだろうか。ここのご亭主は食事を出すと「皆さんでどうぞ。私は晩酌をしますので」といって引っ込んでしまった。洗濯も乾燥機も備えていて、文字通りお遍路仕様。おにぎりもバナナも注文に応じて50円払って持ってけという感じ。こういうあっけらかんな感触が若い人に受けるのかも知れない。

 おしゃべりの中で、前日同じ宿に泊まった人たちが出発するとき靴を間違えられた騒ぎがあり、それが収まったかどうかわいわいと遣り取りが交わされた。このとき20歳代の男性が四国4県の県民気質を話題にした。彼は愛媛の生まれ、靴間違いにまつわる徳島の人たちの動きがこんなにお遍路に優しいのが気になって、県民気質を考え始めたらしい。そうか、私は香川県高松の生まれ、9年そこで育った。カミサンは高知の生まれ、18年そこで育った。でも県民気質という風に考えたことはなかった。いや、県民気質と考えるかどうかは別として、人が受け継いでいく気風は暮らしの文化として人の肌に染みこんでいく。それが人柄となってことあるごとに滲み出てきて、その、ある種の地域的な共通性を「県民性」として分節化して理解するのかもしれない。じゃあ、逆にとらえることも可能なのではないか。地域的な切り取り方を生活文化の気風の違いを取り出す方法としてみると、案外見えるものがあるような気が掠めた。それが、後に泊まる遍路宿のもてなしで明らかになってきたと思えたのでした。

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