青山文平『泳ぐ者』(新潮社、2021年)を読んでいる。江戸の徒目付の話し。事件(コト)が起これば、その犯人を捜し出しとらえるのが主たる仕事であるが、この、徒目付はコトの因にまで踏み込んで探り出すことを担っているという設定。つまり、法的な始末を付けるという公の役割を越えて、なぜそのコトが起こったのかに、踏み込む。そこに青山文平の語り口が差し挟まれて、お噺は展開する。その語りを聞いているうちに、ふと(私にとっては)般若心経と同じじゃないかという感触が、湧き起こってきた。
主人公の徒目付の上司が、主人公を高く買うわけを話している。
「頼まれ御用で大事なのは御頭(おつむ)が切れるってことじゃねえ。てめえが薄いってことさ。科人の気持ちの奥底に紛れちまって、滲んでさ、終いにゃ己れが消えちまうって奴がいい」
主人公はというと、自らがとらえた科人の処遇を、コトの因を識ったが故に大目に処理して貰った経緯(いきさつ)を察して、自らの出世の道を放棄して徒目付を続けているという次第も。
あるいは、因を探る過程で己を責めながらコトを起こした妹のことを語る姉に触れて、その上司の言葉を想い出す。
《「語って美しい者は照照と考える者だ」と言ったことがある。「人には見えねえものに光を当てて見通す。その目の明るさが様子に出るんだろう」と。》
この「照照と考える」という言葉は美しい。私の思いの中で一つ灯りがついたように感じる。「みえねえものに光を当てて見通す」「その目の明るさ」を持つとは、どうすることだろうか。その言葉がわが胸中でブラウン運動を起こして「希望」を感じている。
あるいは、上司はこうもいう。長いが、刺激的な人生観が浮き彫りになるから、そのまま引用する。
《「ヒトが生まれるとき鬼にも生まれる」と、内藤雅之が語ったことがあった。「人に生まれつきゃあ鬼と棲み暮らすのは避けらんねえ。でも、人は鬼じゃねえ。鬼じゃねえ証しがこの世の中だ。鬼に世の中はつくれねえ。つくっても直ぐに壊れる。人と鬼は分けがたいが、人は鬼を馴らすことができる」。だから世の中は面白いと雅之はつづけた。「みんな健気に鬼を飼いならしてさ。そいつが世の中の脈になるんだ。世の中が生きてくってことさ。ちゃんと顔つきを持ってな。鬼との突き合いがなきゃあ、世の中のっぺらぼうになっちまう」》
別様に言えば、「わたし」の知らない世界から響いてくる言葉の波。そうか、般若心経と同じか、とまずは思う。青野文平は江戸時代に場を託して物語っているが、私の知らない世界、つまり彼岸から言葉を繰り出して送ってくる。しかも、般若心経と違って、彼岸を遠近法的消失点において、現世の方から語り出している。ビリビリとわが身に響き、本から目を離してもその余韻がわが身を揺さぶっているのが、わかる。
もちろん般若心経の震源は彼岸に置かれてあり、菩薩にある。マクロに響いてくる波を、ミクロの私がそのまま響き返すってことはあり得ない。だから青山文平の言葉も、同じ平地に立って受け止めているわけではなくて、立っている地平の違いを見極めながら、どう受け止めたら良いか考えている。でも、その言葉に身に響くものを感じるのは、「わたし」の世界と接点を持っているってことだ。
「鬼に世の中はつくれねえ」という言葉が脳裏に思い浮かばせたのはプーチン。だが青野文平は、それよりももっと深いところの「人の世」を視界にとどめているように感じる。「(鬼を飼いならしてさ)そいつが世の中の脈になる」。そうだ、この脈がわが身の裡を走り回っているブラウン運動のタネだ。とするとわが身が感じている「鬼」とは何か。「飼いならす」とは何か。それを面白がっている「わたし」の身に堆積している「人の世の文化の堆積」とは何か。それらの問いが、止めどもなく湧き起こって、胸裏を揺さぶり続ける。
青野文平は、一つ鮮烈なイメージを提示している。
《まだ幼子の頃……蛹を割いたことがある。幼子はものを識らぬ。だから、酷い。青虫が蛹になって蝶になるのだから、蛹の殻を外せば蝶のなりかけが居るはずと思い込んだ。けれど、外れた。蛹の中に見たのは形のないどろどろとした液だけだった。青虫は殻の中で己を解き、いったんドロドロになってから蝶になっていくのだった》
そうなんだ。主人公の上司の言葉が揺さぶり、わが身の裡で走り回っているブラウン運動の「なにか」は、この蛹の中のどろどろとした液に過ぎない。それを、先ずは感性にとどめて身の裡に起ち上げ、それを言葉にして繰り出す。そこまでの成り行きを、いま「わたし」は辿っている。果たして、感性にとどめることができるのか、さらにそれを言葉にすることができるのか。身の揺さぶりを愉しみながら、すでに世の中を通り過ぎてきた老爺が「鬼を飼いならそう」としている。
そう思うと、いや、まだまだくたばるわけにはいかないなあと思ったりする。
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