2020/5/15「まだ、わからない外出の仕方」
2021/5/15「1年前と同じ「状態」」
こうして、1年前、2年前と今年とを較べてみると、「わたし」の佇まいが浮かび上がる。今年は「お遍路帰り」である。コロナに関していえば、遍路宿で若い人たちを交えて夕食を楽しんでいるときに「濃厚接触者」になっていても不思議ではないが、幸いにもその後感染した形跡がないから、こうして無事に戻ってきている。振り返ってみると、夕食の時にマスクは外しているし、若い人たちはお遍路をどうやっている、何が面白いとおしゃべりに興じていた。全く警戒はしていない。つまり「自助」によるwith-コロナが日常化していたということだ。
お遍路帰りの私は、こうしてPCの前に座って、日長よしなしごとを綴る。それはそれで身の振る舞いとして定着しているが、ひとつ大きな変化が起きていることを感じている。集中力がガクンと落ちた。本を読み続けられない。疲れを引きずっているのかもしれないが、読み始めて半時もすると飽きてしまう。一冊、興味津々の本を手にして118頁ほど読んでいる。国分功一郎『暇と退屈の倫理学』(太田出版、2015年)。お遍路から帰ってきたら(出発前に)予約していた図書館から「届いています」とメールが来ていた。
お遍路に飽きちゃったという気分が、一体どういうことなのかを合わせ考えるのに恰好の本。全部で437頁もあるのに、一週間経ってまだ四分の一しか読み進めていない。ほかにも『いのちの政治学』とか『生物はなぜ死ぬのか』などの面白そうな本も届いているのに、積んだまま。なぜだ、これは?
86歳の方が老衰で亡くなったと友人が話している。彼は「高齢化のために身体機能が劣化してなくなる場合が老衰なんだね」と笑っていたが、そうか、経年劣化のために躰が思うようにならないのを老衰と呼ぶとしたら、「わたし」の集中力がなくなって本が読めなくなったというのも、老衰の徴候と見た方が良さそうだ。本が読めないだけではない。TVも観つづけることができない。面白くないと、なぜかすぐ分かる。ドキュメンタリーとか、自然の記録とかはそうでもないが、それでも興味関心が持続しない。なんだか、「わたし」の世界が狭まってきている。
お遍路で身体能力が数え80歳になっていると痛感した。だがじつは、骨や筋肉や運動能力が劣化しているだけでなく、もっと本源的な内臓の力が衰えている。呼吸器系や循環器系、消化器系の衰えが身の奥深くから「状況」を伝えてくる気配を受け止めている。それが歩いている気分に響いていると感じ続けていた。疲れというのが、骨や筋肉の衰弱と快復力のなさというだけでなく、もっと奥深い躰の機能不全が始まっていることに起因すると、ひたひたと感じられてきたのだ。
それが「飽きちゃった」ことと関係があるのかどうかは、わからない。「わたし」がそういう言葉しか持っていないから「飽きちゃった」と表現してるかだけなのか。「飽きちゃった」というのは、「わたし」と外部との「関心の緊張関係」が希薄になっている表現である。だが外部との関係ではなく、「わたし」の内奥の劣化が「緊張関係」の感受を希薄にしているとしたら、劣化とか老衰というのは、「わたし」が「せかい」から退出しようとするわが身の裡側からの発信ではないのか。そう思ってわが身の「状況」と「寿命」ということを考えてみると、「せかい」が狭まることと彼岸に渡ることとの関係もみえてくるように思った。
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